もし諸の菩薩がただ極静を取るのみならば、静の力によって、永く煩悩を断ち、究竟成就し、座より起たずして便ち涅槃に入る。この菩薩を、単に奢摩他を修する者と名づく。第一の単に奢摩他を修する方法は、止を修する方法、すなわち禅定を修する方法であり、禅定に依って次第に一切の煩悩を断除し、座より起たずして涅槃に入ることができる。これは菩薩の修行であり、菩薩の修行は当然ながら無余涅槃を取らず、最終的に仏地の無住処涅槃を証得し、究竟仏の涅槃となる。ここに一つの鍵となる問題がある。これらの菩薩は修行においてただ禅定のみを修し、心を清浄極まりなく清浄ならしめ、この清浄の力に依って永遠に煩悩を断除する。すなわち、心が極静極まりなく静まり、雑念妄念が消滅すれば、煩悩も断除され、ついには一切の煩悩を断除するに至るという意味である。単なる禅定では煩悩を断じられないのではないか?なぜここで菩薩が定を修し静を取れば一切の煩悩を断除できると言うのか?
外道が修する純粋な禅定は根本煩悩を断除できず、ただ粗重な枝葉の煩悩である大随煩悩・小随煩悩を降伏させるのみである。後世に禅定が消失すると、根本煩悩に依って、枝葉の大小の随煩悩は再び現起する。なぜなら、外道は禅定中の解脱の智慧において、心が完全に空ではなく、不空の部分が残り、空が究竟していないため、根本煩悩を断じられず、ただ粗重な煩悩を断じるのみで、これを煩悩を降伏させるという。外道は煩悩を降伏させる功徳によって、わずかに仏法を思惟すれば、我見と根本煩悩を断除し、無余涅槃に入ることができる。したがって、禅定の功徳は依然として極めて大きく、心静かにすれば智慧が生じる。
阿羅漢と辟支仏は解脱の智慧を有するため、禅定中に得る空は外道たちよりもより究竟し、純粋で、深遠である。それゆえ、根本煩悩および大小の随煩悩を断除できるが、ただ煩悩習気を断除できない。これに対し、菩薩は解脱の智慧のみならず、般若と唯識種智の智慧も有する。禅定中に得る空は阿羅漢・辟支仏よりもさらに究竟かつ徹底しており、この空の力によって一切の煩悩、すなわち煩悩習気をも断尽することができる。煩悩は無明であり、煩悩が断尽すれば無明が断尽する。無明が断尽すれば、究竟仏果を成じ、究竟無住処涅槃を証入する。
菩薩が煩悩を断つのは永断であり、いかなる煩悩も無明も再び生起しない。金鉱から黄金を精錬すれば、永遠に再び不純物が混入することはない。これが心が寂静極まりなく寂静に達する功徳である。一切の法を取らなければ、無明が断尽する。一法も取らなければ無明は存在せず、再び縁に歴って煩悩を対治する必要もない。人々の中で自心を反観し、直接に万縁を棄捨し、万法を放下する。心は直接に底まで空になり、空が純粋に、空が究竟すれば、便ち涅槃に入る。これが菩薩が単独に奢摩他を修する方法である。
10
+1