衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法師ウェブサイトロゴ

日常法話

2021年09月25日    土曜日     第1開示 合計3513開示

『円覚経』における禅那の修習方法

もし諸の菩薩がただ諸の幻を滅し、作用を取らず、独り煩悩を断じて、煩悩が断尽すれば、すなわち実相を証するならば、この菩薩を単修禅那と名づく。 

禅那とは禅修の法門であり、般若を証して実相を参悟することを目標とする。実相はどのようにして証得されるのか。煩悩が断尽すれば証得されるのである。煩悩とは一切の無明であり、無明の遮障がなければ、般若智慧が顕現し、必ず実相を証する。仏は説かれた:大地の衆生は皆如来の智慧徳相を具えるが、ただ煩悩妄想のゆえに証得できないのであると。禅那の法門はまさに仏の説かれた通りに、煩悩を断じて実相を証する修行の道を歩む。菩薩が煩悩を断つ方法は外道や阿罗汉・辟支仏とは異なる。なぜなら菩薩は諸法が幻の如きことを知っているからである。そこで禅修の中で諸の幻を滅し、凡そ幻化された不実の相はことごとく滅除して取着せず、諸の幻法を執取しないがゆえに、煩悩は次第に断除され、心が清浄を得て、幻ならざる実相の法を証得するのである。 

もちろん煩悩は即時にすべて断尽できるものではなく、実相も即時にすべて証得できるものではない。次第と段階と過程が必要であり、煩悩が断除されればされるほど、実相の証得はますます深まり、煩悩が断尽するに至って初めて実相がすべて証得され、仏に成るのである。つまり、どの程度の実相を証得しようとするかによって、それ相応の程度の煩悩を断除し、それ相応の程度の遮障を取り除かなければならない。最も粗重な煩悩を断除すれば、最も初歩的な般若実相を証得し、根本煩悩を断除すれば、甚深なる般若実相を証して真如を得、煩悩習気を断除すれば、証する真如はますます深く、ますます真となる。故に煩悩を断たなければ実相を証することはできず、もし最も粗重な煩悩さえも絲毫も断除していなければ、我見を断つこともできず、般若実相も証することはできない。 

多くの人々が「菩薩は煩悩を断つ必要がない」と主張するが、それは菩薩が般若を証し実相を証する必要がないと言うのと同じであり、智慧なき菩薩のようなもので、真の菩薩ではなく、菩薩の智慧も徳行も備わっていない。根本煩悩を断ちたいと思わない菩薩が、もしなお粗重な煩悩を有しているならば、それは俱縛の凡夫であり、菩薩に似て菩薩ではなく、菩薩の風格も器量もなく、衆生の模範となることもできず、衆生を導いて解脱へ、涅槃の彼岸へと向かわせることはできない。

単修禅那の修行全体の重点は、ただ諸の幻を滅し、作用を取らないことにある。幻法は因縁によって生じ、生滅変異するもので、実質的な作用はない。故に菩薩はこの点を認め、幻法を認め取らず、また執取せず、修行の全過程において、我見を断つこともでき、我執も断ち、更に法執も断ち、実相を証し、真如を証し、無住処涅槃を証することができる。幻法の作用を取らないとは、法執を断つことである。法執が断尽すれば、無明と煩悩も断尽し、仏地の無住処涅槃を証する。外道の修行方法には、諸の幻を滅除することが含まれていない。なぜなら彼らは諸法が幻の如きことを知らず、五蘊が幻であることも知らないからである。阿罗汉・辟支仏ももし般若を修学していなければ、諸法が幻の如きことを知らないため、諸の幻法を滅除することができず、諸の幻法を取らず、法執を断つことができない。ただ菩薩のみが法執を断つことができ、ただ菩薩のみが仏に成ることができ、ただ菩薩のみが究竟涅槃を証得することができるのである。

——生如法師の開示
前へ前へ

円覚経中三摩鉢提の修習方法

次へ 次へ

無量百千三昧は如何にして成就されるのか

ページトップへ戻る