衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2021年09月26日    日曜日     第1開示 合計3514開示

無量百千三昧は如何にして成就されるのか

無量百千の三昧はすべて甚深の禅定の中で成就されるものであり、すべて意根によって成就されるものである。甚深の禅定においては意識は思惟することができなくなるが、意根にはなお思量がある。もし意根が思量しなければ、三昧は現れず、すべての三昧は意根の思量の結果である。意識の思惟は如何なる三昧も現起させることはできない。意根が思量した後、思想観念が変化し、智慧が生起し、心に決定を得て、選択が生じ、初めて三昧の境界が現れる。したがって、意識の智慧による思惟が意根の思量を導き、深く禅定の中に入り、定慧等持すれば、必ず甚深の三昧が現れ、将来には百千万億の三昧が現れ、無量の神通力によって衆生を接引し度化することになる。円覚経における二十五種の修行成就の清浄定輪に至るまで、これもまた意根が甚深の禅定の中で成就するものである。

円覚経において、世尊は二十五種の清浄定輪を開示された:一切の如来の円覚清浄は、本来修習するもの及び修習する者もなく、一切の菩薩及び末世の衆生は、未だ覚らざる幻の力に依って修習する。その時に二十五種の清浄定輪がある。

(一)もし諸の菩薩がただ極静を取るならば、静の力によって、永遠に煩悩を断ち、究竟の成就を得て、座より起たずして涅槃に入る。この菩薩は、単に奢摩他を修する者と名づく。(二)もし諸の菩薩がただ如幻を観るならば、仏力によって世界を変化し、種々の作用を備え、菩薩の清浄なる妙行を行い、陀羅尼において寂念及び諸の静慧を失わない。この菩薩は、単に三摩鉢提を修する者と名づく。(三)もし諸の菩薩がただ諸の幻を滅し、作用を取らず、独りに煩悩を断ち、煩悩が断じ尽くされると、実相を証得する。この菩薩は、単に禅那を修する者と名づく。

後の二十二種の修行方法は、すべて前の三種の止・観・実相証得の三法を機に応じて組み合わせたものであり、すべて意根が甚深の禅定修行によって成就されるものである。円覚経は非常に殊勝であり、極めて殊勝であり、真実に修し実証する修行であり、少しも偽りを交えることができず、一切の情思意解は用をなさない。甚深の禅定は不可欠であり、意根の思量は不可欠であり、甚深の観行智慧は不可欠である。すなわち意根の観慧は不可欠である。このような修行においては、意識が如何に思惟推理臆測しようとも、少しも作用を起こすことができず、一絲の三昧さえも現起させることができず、神通力の影さえ現れることはない。

もし心を静めたいと思っても静まらないならば、それは意識は静めたいが、意根は静めたくないからである。もし諸法が如幻であると感じ、幻法を滅したいと思っても、一法も滅せられないならば、それは意識は滅したいが、意根は如幻とは感じず滅したくないからである。もし貪瞋痴が煩悩であり断除したいと感じても、断除できず、煩悩が絶えず現れるならば、それは意識は煩悩を断ちたいが、意根は煩悩を断ちたくないからである。したがって修行がただ意識の上に留まるだけでは、生死の大事を根本的に解決することはできない。それゆえ、我々は今から着実に修行し、自らを欺き人を欺くことなく、見せかけだけの修行や虚偽の方法にふけるべきではない。

——生如法師の開示
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