修行はトウモロコシ畑でトウモロコシをもぎ取るようなものだ。目的はトウモロコシを獲て煮て食べ、腹を満たすことであって、畑を見物するためではない。故にもぎ取ることが最優先である。もちろん実際にもぎ取る前に、畑の状況を大まかに観察することはできる。どの実が熟しているか、どこから手を付けるべきか。しかし中には、終日畑をうろつき、空腹のままあちこち触り回るだけで決して収穫しない愚か者もいる。
学仏する者も同様である。仏法をある程度学び聞いた後は、真剣に実修すべきだ。最も近く最も着手しやすい所から、着実に修行に励むことだ。少しでも得るところがあればそれで良し、どれほど悟れてもそれで良し。長年あるいは一生を多聞聡明の段階に留まり、他人の教えを学ぶことに熱中し、他人の財産を数えるようなことを続けてはならない。自らの宝を持つことが王道である。さもなくば餓死して餓鬼道に堕ちるだろう。
自らの道行きを持ち餓鬼とならぬためには、基礎から着実に修行を積まねばならない。三十七道品は少しずつ修め、悪を去り善を修し、煩悩は少しずつ調伏し、心は少しずつ清浄にすべきだ。仮に見道しなくても、これらの修行の成果は来世に持ち越せる。修めないよりは遥かに有益で、他人の宝を数えるより勝っている。他人の金銭を数えることに悦に入っていると、いざという時一銭も持てないことに気付き、後悔しても遅い。聡明な智慧ある者なら、如何に学び修行すべきか、自ずと明らかであろう。
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