衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2021年09月16日    木曜日     第2開示 合計3507開示

意識と意根の好む区別

心に好みが生じるのは、およそ二つの段階、あるいは二つの程度に分けられます。表面的なのは第六識の好みであり、深層にあるのは末那識の好みです。決定権がないのは第六識の好みであり、好きになると千方万方で手に入れようとし、行動を起こして得ようとするのが末那識の好みです。中毒や夢中になること、念念不忘(心から忘れられないこと)は、すべて末那識の好みです。たとえば、ある家庭では家長が決定権を持っており、何かを好きになる場合、子供の好みもあれば家長の好みもあります。しかし、子供が何を好きになっても決定権はなく、必ず家長の同意を得て初めて好きなものを得る手段が講じられます。一方、家長は好きなものがあれば手段を講じて手に入れます。子供は第六識に相当し、家長は末那識に相当します。 

もし第六識の好みが末那識を熏染(くんせん)すれば、末那識もそれを好むか、あるいは第六識の好みに同意し、末那識は好きなものを得ようと決定して取りに行きます。第六識の好みは、一つには末那識の影響を受け、もう一つは環境(六塵の境界)の影響を受けます。末那識の好みは、一つには無始劫(むしごう)以来の煩悩習気に由来し、もう一つは第六識の熏習(くんじゅう)に由来します。もし第六識の好みが末那識まで熏染しなければ、末那識はこれを無視し、第六識は空しく好むだけで得ることはできません。たとえば、法を学ぶことを好むのは、まず第六識が好み、その後で末那識が好む場合です。もし第六識が法を学ぶことを好んでも、末那識が好まなければ、精進することはありません。もし末那識も法を学ぶことを好めば、ひたすら追い求め、精進して修学します。長く堅持して放棄しないのは、すべて末那識の好みによるものであり、断続的なのは末那識があまり興味を持っておらず、第六識に牽引・制御されている状態です。制御できなくなると、末那識は離れてしまいます。

——生如法師の開示
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青空観行日誌 9月16日

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