各人が修定に用いる方法は一様ではない。その理由は、第一に人々の機根が異なるためであり、第二に禅定は多方面から生じるため、いかなる方法でも三昧に入ることが可能だからである。ある者は法義を思惟する際に禅定が消失し、心が散乱するが、別の者は法義を思惟する際に定力が速やかに生起し、禅定も深くなる。後者は智慧によって禅定を導き、禅定の生起と深化を促すものであり、坐禅のみに依存して禅定を引き起こすのではない。智慧は雲霧を払って光明を見る手であり、智慧を用いて心を思惟すべき法義の方向へと導き、専一に思惟することで禅定が生起し、定と慧が結合する。そして止観双運が最も容易に三昧を生じさせ、解脱の果証を得ることができる。
修行過程においては、自らの特長と優れた点を発見し、長所を生かし短所を避けるべきであり、そうすれば修行は迅速に進む。智慧に優れた者は、他の者と同じように必ずしも四念処から観を起こす必要もなく、あるいは白骨観から修行を開始して修道路筋を模索し続ける必要もなく、自身に適した独自の修行方法を制定することができる。この方法に従って修行が急速に進歩すると自覚したならば、それを堅持すればよい。畢竟、修道路筋は無量に存在し、機根にも多くの差異があるため、すべての人が画一的に同じ修行方法を用いるわけにはいかないのである。
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