座禅百五十六日目
呼吸観察 今朝の座禅では呼吸を観察した。吸気は鼻の先端から入り始め、気流の通る経路——鼻腔、咽喉、気管、胸腔を経て、上腹部、中腹部を通り、最終的に丹田に至る。呼気は丹田から始まり、気流が上述の経路を逆に通って排出される。気流が呼吸に関わる各部位を流れる感覚が捉えられ、吸気時には気流の先端が到達する部位の状態を感知し、呼気時には気流の末端が丹田から上方へ胸元に向かって収縮していくのを覚知した。気流の出入りする経路にはぴりぴりとした感覚があった。
今朝の座禅では意念が比較的集中しており、頭部の張りや気の衝撃といった現象は現れず、頭脳は清明で呼吸は均等かつ楽であり、先日のような抵抗感はなかった。呼吸観察を始めて間もなく、胸骨のあたりが開くように感じられ、ほのかな温かさと心地よさがあった。続いて両肩も同様に、骨が開くような非常に快適な感覚に包まれた。これがおそらく「軽安」と呼ばれる状態であろう。腹部は温かく、以前のような強い熱感はなかった。呼吸観察が続くにつれて呼吸の深さが増し、吸気時には気流が腹部の底まで達し、呼気時にも足首に気流の出入りを覚知できるようになった。気がつけば座禅を終える時刻となっており、今回は少し時間が短く感じられた。
評:以上に観察されたものは全て現象に過ぎない。重要なのは、君がこれらの現象の中にどのような真理を見出したかである。これらの現象に対してどのような感慨を持ったか。例えば子供が玩具で遊んでいると、遊んでいるうちに次第に面白くなくなる。なぜ面白くなくなるのか?例えば長期間同じことを繰り返していると、やり続けるうちに次第に虚しさを覚える。なぜ虚しくなるのか?例えば毎日食事をしていると、食べ続けるうちに本来なら食事が虚しく感じられるはずだが、ただ食べざるを得ないだけだ。もちろん大多数の人はこうした考えを持たない。例えば人の一生——生老病死、恩愛情仇、五欲が絶え間なく続く中で、生きているうちに「人生とは所詮こんなものか」と虚しさを覚える者が現れる。もちろん大多数の人はこうした考えを持たない。
これらはまだ究竟の境地ではない。さらに深く探究すれば新たな発見があり、空を発見して初めて智慧が生まれる。生滅を覚知することこそが智慧であり、空を覚知することこそ真の智慧である。智慧なき者は、たとえ一生涯挫折を経験しても人生の空虚さを悟らない。智慧ある者は、たとえ一生順調であっても人生に意味を見出そうとはしない。長く観察を続ければ、現象の生滅を体得し、現象の空を体得するようになる。一つの現象が空じられると、それに関連する他の現象も空じられ、ついには五蘊皆空に至るのである。
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