衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2021年08月15日    日曜日     第1 回の開示 合計3490回の開示

意根の二種煩悩心所法

意根の煩悩心所法は二種類に分けられる。一つは常に意根に伴って現行し、一瞬たりとも絶えることのない煩悩心所法であり、『瑜伽師地論』で述べられている我見・我慢・我愛・無明(我痴)がこれに当たる。もう一つは常に意根に伴って現行しない煩悩心所法であり、これは上記四つの煩悩以外の心所法を指す。例えば瞋恚・喜怒などの大随煩悩・中随煩悩・小随煩悩がこれに該当する。もしこれらの煩悩が恒常に現行するならば、衆生の自他の身心は甚だしく損なわれ、生活は混乱し、生命は長続きしない。ただ我見・我愛・我執・我慢の煩悩こそが凡夫衆生に恒常的に現行する煩悩なのである。

 すべての人々が深遠な教法に接する時、現前に観行することはできず、わずかに表面的な意味を理解するに留まるため、暗誦するしかない。十二因縁法は、衆生が六道で生死を繰り返して止まない理由は意根の無明にあることを示している。もし意根に無明がなければ、十二因縁は尽き、衆生の煩悩は尽きて生死から解脱する。無明が行を縁じ、行が識を縁ずる。この七文字を充分に理解すれば、意根に果たして瞋恚があるかどうかがわかるだろう。もし意根の無明に瞋恚が含まれなければ、六識に瞋恚の業を造作させることもなく、生死の業はほぼ半減する。一方、意識に瞋恚があっても問題ない。なぜなら意識は瞋恚の業を造作する決定権を持たず、従って瞋恚の業種子も存在せず、瞋恚による生死の業も生じないからである。 

さらに言えば、意識の瞋恚はどこから来るのか。どのように出現するのか。多くの人々は意根に瞋恚があるかどうかを現前に観察することも、意根と意識の論理的弁証関係を整理することも、六識の身口意行の由来を知ることもできず、ただ経典を暗誦するだけで、自分たちの浅薄な理解を正しいと考えている。『楞厳経』に説かれるように、衆生の生命の最初期にはただ意根と阿頼耶識のみが存在し、意根が念を起こした後に初めて天地万物と五陰六識が生じる。もし意根に瞋恚がなければ、意識の瞋恚はどこから来るのか。瞋恚の業はどのように出現するのか。衆生が互いに争い戦うのは何故か。それはどのように生じるのか。

意識の煩悩は伏せ除くことが容易い。理論を理解し、理論を明らかにすれば、効果的に煩悩を制御できる。しかし意根が煩悩を断たない限り、根本的な問題に遭遇した際、意識が油断すれば直ちに煩悩が現れ、人は本性を現す。例えば夢中や酔った後、意識が弱まれば理性を失い、意根の煩悩がすべて表出する。酩酊後の瞋心や瞋行が果たして意識のものだろうか。なぜ酒後に悪業を造りやすいのか。なぜ酒後には本性が現れるのか。なぜ酒後に人柄がわかるのか。

煩悩を伏せるとは意識の煩悩を断つことを指すが、これは一時的なものであり永続的ではない。もし意根の煩悩が断たれなければ、意識が断った煩悩も因縁が具足すれば再び生起し、根本的に制御できない。故に瞋恚の煩悩は第三果に至って初めて断尽する。これは意根が第三果において初めて瞋恚の煩悩を断尽することを示している。一方、意識の瞋恚煩悩は凡夫が理を明らかにする段階で断除できるが、究竟的ではなく特殊な縁に遇えば再び現れる。例えば性格が温和で気質が特に良く、平常時いかなる状況でも瞋恚を生じない人々がいる。これは意識に瞋恚がない状態である。しかし一旦特殊な状況に遭遇し、その人の底线に触れれば、このような人でも殺人を犯す可能性がある。これこそ意根の瞋恚が現行した状態である。

——生如法師の開示
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