衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2021年08月03日    火曜日     第1 回の開示 合計3489回の開示

臨済宗四料簡

人を奪って境を奪わず、境を奪って人を奪わず、人境ともに奪い、人境ともに奪わず。 「奪」とは剥奪・剥離・遣除・消除・消滅を指す。「人」とは主観的な我、能攀縁の識を指し、「境」とは所攀縁の塵境を指す。この三文字の意味は、禅参究の過程における存在が能と所を剥離・消除すべきこと、すなわち五陰我見を次第に断除すべきことを要約している。我見あることは遮障となり、障碍となる。慧眼開かず、人境のみ見て真心を見ず。 

凡夫衆生は皆我見を有すれども、修学の過程において我見の重点は異なり、ある者は主観的な能に偏重し識に執着し、ある者は客観的な所に偏重し境に執着し、ある者は二者ともに執着す。我見我執あるが故に心空ならず、参禅に果なし。この時、具眼の禅師が接機示教し、当面に空を逼り、学人の執する能所を奪い去り、眼障を除き、その法眼を浄くせしむ。これ前三料簡なり。法眼浄きを得た禅者は人境ともに空しく、空処に落つ。向上の一路実相を悟らんがため、禅師再び接機示教し、学人をして空処より轉身せしめ、人と境に於いて有を悟らしむ。かくして柳暗花明また一村、境界転折し、大事は初歩的に解決を得る。第四料簡は大乗見道を完成し、向上の路を開く。故に我見を断ぜざれば、悟りを開くこと能わず。

——生如法師の開示
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