いつになったら人事や物事の道理を理解し、明らかに見極められるようになるのでしょうか。仏はこう説かれています:四果阿羅漢を証得しないうちは、自分の心を信じてはならない、汝の心は信じがたいものであると。衆生の身・口・意は清らかではなく、心は煩悩に染まっており、無明があるため、物事を見る際に明らかに見極められず、人事や道理を正しく理解することができません。その結果として現れるのは、正しくない身・口・意の行い、あるいは悪しき身・口・意の行いです。たとえ明心見性した後でも、心の中にはまだ貪欲・瞋恚・愚痴の煩悩があり、無明が存在します。菩薩であっても、もし三果や四果の位に修めていなければ、同様に貪欲・瞋恚・愚痴の煩悩を抱えており、これらの煩悩も現行し、身・口・意による悪業を造作することもあります。ただし、菩薩の煩悩や業は凡夫に比べてわずかに軽いだけです。
初地に入って初めて、煩悩は効果的に調伏されるようになります。初地に入る時、菩薩は必ず三果の聖者または四果の阿羅漢であり、すべての煩悩は効果的に調伏され、智慧は深く広大になります。心が清らかになり、初歩的な無漏の境地に達することができます。心が初歩的な無漏に達した時、その時は禅定の力と智慧の両方が備わっているため、初めて人事をはっきりと明らかに見極められるようになります。その菩薩のなす身・口・意の行いは、必ず他の人々よりも清らかであり、その時に初めて自信を持ち、自分の心を信じることができるのです。もちろん、多くの場合、それは人によって異なり、一概には言えません。それ以前は、私たちはあまりにも自信を持ちすぎず、人を見たり、事柄を見たり、問題を考えたりする際には必ず誤りを犯すものです。なぜなら、智慧がなく、弁別する力がないからです。
要するに、識(認識作用)が清らかでなければ、見(見解)も清らかではありません。見が清らかでなければ、了別(識別)も清らかではありません。了別が清らかでなければ、想(思考)も清らかではありません。想が清らかでなければ、説(言葉)も清らかではありません。説が清らかでなければ、作(行為)も清らかではありません。七識(末那識)に染汚と無明があるために、身・口・意の行いがすべて清らかではなくなります。身・口・意の行いが清らかでなければ、業の種子も清らかではありません。業の種子が清らかでなければ、果報も清らかではありません。その中の業の種子が清らかでないことが、来世の身・口・意の行いを依然として清らかでなくさせ、それによって生々世々にわたり清らかではなくなり、その結果、生死流転が止まなくなるのです。ここに見られるように、仏法を学び修行し、無明を取り除き、染汚を除くことがいかに重要であるかがわかります。
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