衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年02月21日    水曜日     第5 回の開示 合計88回の開示

いかにして心を清静にするか

意根が六塵に対して作意した後、六塵に触れなければ、後の心行は現れず、六識も生じず、六根は六塵に対して無心となる。意根が六塵に対して作意し触れた後、領納せず受け入れなければ、後の心行も生じず、六識は生じず、六根は六塵に対して無心となり、心は清らかになる。意根が六塵に対して作意し触れ領納した後、想わず執取しなければ、後の心行は生じず、六識は生じず六根は六塵に対して無心となり、心は清らかになる。もし意根が六塵を執取した後、思心所は必ず現行し、抉択は必ず現れ、六識を生じるか六塵に向かうか、あるいは六塵を避け、喜厭の心行は必ず現れ、心は清らかでなくなる。

もし六識が煩悩を圧伏し、六塵に対して喜ばず厭わなければ、これも無心であり、心は清らかである。六識が六塵に対し作意し触れても、受けず、想わず、思わず、造作を決定せず、心は清らかになる。六識が六塵に対し作意し触れ領納しても、想わず執取せず、心は清らかになる。これが境界において心を修めることであり、煩悩を降伏させ断除できる所以である。

六識が六塵に対し作意し触れ領納想した後、自らの心思を圧伏し、思わず造作せぬよう制御すれば、業行を造作することを避けられるが、心は既に清らかでなくなる。

この時の圧伏は意根を圧伏し、意根が六識に業行を造作させる決定をさせないことである。もし意根が降伏していなければ、六識が造作を決定しなくても、意根の指揮に従わざるを得ず、必然的に業を造ることになる。但し時として、六識が造作を決定せぬ場合、意根は随順し、心は休息して、いかなる身口意行も造作しない。

——生如法師の開示
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