衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年02月21日    水曜日     第3開示 合計86開示

無明と染汚を取り除いて初めて、第七識の心は大智慧性を具えることができる

ある人は、識が分別しないことが清浄であると言う。この説は明らかに正しくない。清浄性とは、識心が一切の法を分別し、身口意の行いを造作する際に清浄であり染汚されていないことを指す。識心が分別する際に、貪瞋痴の煩悩を帯びず、無明を帯びていない、そのような心こそが清浄なのである。もし識心が一切分別しなければ、人々は正常に生存し生活することができない。無明があるとき、識心は清浄ではありえず、顛倒した分別をしたり、あるいは不明瞭な分別をしたりし、智慧性がなくなるため、法を正しく了知することができず、多くの法を容易に観察することができなくなり、何を見てもはっきり分からず、何を考えても明瞭に理解できない。

七識心が大智慧性を備えた分別を持とうとするならば、必ず染汚を除去し、無明を除去しなければならない。無明が断尽したとき、智慧性を備えた分別は円満に達し、一切の法を円満に了知することができるようになる。七識心に無明がなければ、もはや顛倒することはなく、一切の法を円明に了知することができる。一切の法を円満に了知する心こそが智慧ある心であり、智慧ある心は無漏である。貪瞋痴の煩悩もなく、無明もない状態を無漏と呼ぶ。煩悩があり無明がある状態は有漏である。識心の無明が少なければ少ないほど、一切の法を分別する際に真相・実相を識別でき、分別はより明瞭に、より透徹したものとなる。無明があり有漏であるとき、識心の分別は円満でなく不徹底であり、障害が生じる。障害が多ければ多いほど、心の量は狭くなり、認知の範囲も狭まり、認知の程度は浅くなり、智慧性は不足する。識心が無漏に修されるとき、智慧は非常に広大となり、無量無辺にまで広大となることさえあり、以前には観察できなかった真相を観察できるようになり、あらゆる人・事・物・理を徹徹底底に、透徹して、円円明明に観察し、最も究竟なる実相と真理の深奥にまで入り込むことができるのである。

——生如法師の開示
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識心の分別性と了知性

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