衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年02月22日    木曜日     第4開示 合計92開示

仏法の修学は心性と技術の両面に精進すべし

仏法における技術とは、学理の知識と証理の知識を指します。技術に精進するとは、座禅によって定を修め、学理を研鑽し、参究・研究・思考に励み、ある法を証得し、ある果位や資格・名誉を得て、結果を獲得することを目指すものです。

心性における修養とは、五蘊の無我性を観察し、自我を調伏し、煩悩を制御し、心を柔和で善良にし、聖賢の無我心性を備え、私心と我執を除去して自利利他を実践することを指します。具体的には菩薩の六波羅蜜を実践し、福徳の蓄積と戒律の受持を段階的に完成させ、一切の人事に耐えて自心を調伏し、懈怠心を淘汰し、禅定を修めて観照力を高め、煩悩を降伏させ、般若空性の理を薫習し、心を次第に空性に近づけます。心性と技術は相互に補完し合い、心性は目に例えられ、技術は足に例えられます。目が技術の方向と高さを決定するのです。

仏道修行は心性と技術を併せて修めるべきであり、一方のみを修めて他方を顧みないのではなく、両輪で進むことでバランスを得ます。技術面のみの修行とは、理論研究に偏り我性を調伏せず、理論と実践が乖離している状態を指します。仏法本来の目的は衆生が自我を調伏し無我を証得し、解脱と自在を得ることです。しかし衆生が無我を修行する目的と結果は、かえって我性を増長させ我執を強め、自我がますます肥大化し、心性が以前より劣化するという、修行の成果とは大きく懸け離れた状態を生み出します。これが心性を修めず技術のみを修めた結果です。

技術面のみを修行し心性を修めない場合、その結果は徳が位に伴わず、後に大混乱を招きます。仏法修行を資本と見做し、技術を習得後、自らを一切衆生より優れていると考え、人上人たらんとし、この技術を以て得意満面となり我慢を増長させ、他者を圧倒する手段とします。これは深刻な我相・人相・衆生相の現れであり、技術面のみを修めた結果の悲劇的で仏法に背く悪果です。甚だしい場合は我慢我執によって仏法と仏教を混乱させ、衆生の仏法への信心を損ないます。

修行方法は理論研究のみの技術的作業ではあり得ず、より重要なのは心性の育成と転換です。もし仏道修行が技術的努力のみなら、仏は衆生に清浄な大願を発させ、願力によって修行を導くことを求めないでしょう。技術的努力のみならば、なぜ経典研究に没頭し様々な観行に精進する者が、常人知らざる理論を導きながら貪瞋痴が依然熾盛で、生涯七住位・六住位に留まるのでしょうか。膨大な唯識理論を学びながら一歩も前進できないのはなぜでしょうか。

もし修行が技術的努力のみなら、なぜ数十年座禅を組んでも初禅を得られない者がいる一方、一二年で初禅が現前する者がいるのでしょうか。なぜ三十年悟っても初禅の影さえ見えない者がいるのでしょうか。一方で仏法に接して間もなく、理論に触れ軽く観行するだけで各種果位を証得し、多くの名相が未整理でも観行智慧が早く生起する者がいるのはなぜでしょうか。

仏道修行が技術的努力なら、菩薩の六波羅蜜は技術的修行か心性的修行か。布施波羅蜜は技術的か心性的か。持戒は技術的か心性的か。忍辱は技術的か心性的か。禅定は技術的か心性的か。智慧について、心性が劣る者の智慧はどのようなものか。その智慧は菩薩や仏と相応するか。精進には正精進と邪精進があり、邪精進は技術的、正精進は心性を修めるものです。邪心ある者が仏法で真の利益を得られるか。菩薩成就の真の証は慈悲喜捨であり、心性が転じなければ慈悲喜捨の心行は永遠に生じず、菩薩の果位は満足されません。

阿罗汉と菩薩、どちらの心性が優れているか。どちらの道業が向上するか。仏に最も愛されるのは誰か。誰が最初に成仏するか。技術的修行者と心性的修行者、仏は技術者を焦芽敗種と誹り無為の坑に堕すと説きませんでしたか。仏道修行の最終結果は必ず徳才を兼備し、才ある以上に徳が必要です。徳なき才は歪み、邪道に用いられ悪業を造るかもしれません。世に才ある者は多いが、善業に用いるとは限らず、悪業に用いる者も多く、悪業に用いるなら才なき方がましです。

仏道修行者は徳を最優先とすべきです。徳あれば才は自然に備わります。才のみで徳なき者は、才多大でも正用されません。徳あって才なき者は、菩薩心性によって仏力加被を受け、速やかに道を得るでしょう。

故に仏道修行は技術的作業ではなく、主たるは心性の修養です。無我無私の者こそ真の菩薩であり、内心に自己と私利のみを抱く者は真の菩薩ではありません。

技術的作業は心性修養より何倍も容易です。技術は努力と研究で必ず成果を得られ、聡明なら多くの技術を習得できます。しかし心性は百年かけても調伏困難で、本性は改め難いのです。技術を修めた菩薩も心性を調伏しなければ真の菩薩ではなく、名ばかりの偽菩薩で、菩薩の作用を発揮できません。

多くの者が心血を注いで観行・研究に励みながら、自心を省みず、仏法の科学技術を研究しても我性と自私性を調伏できず、真に我見を断ち明心証悟できません。こうした者は菩薩ではなく、仏法の科学技術を掌握しても無意味です。現代、仏道修行を技術的作業のみに終始し心性に用功しない者が多数います。技術は習得しても徳が伴わず、至る所で自我を誇示し混乱を招きます。仏道修行は自我を顕わすためであり、調伏するためではありません。学ぶほど高慢になり、我執が増大し、世を乱します。多くの者が仏道を出世の手段とし、他者を踏み台にし、自我の消滅を考えません。これは我見を断つか、増長させるか。仏教がこのまま進めば、世は大混乱に陥ります。

真に修養を成就するには、両面を重視すべきです。心の田地に用功して自らを調柔にしつつ、観行参究に励んで実証を重ね、真の聖賢となることです。

——生如法師の開示
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