仏法における技術とは、学理的な知識と実証的な知識を指す。技術に精進することは、座禅や瞑想によって定を修め、理論知識を研鑽し、刻苦精励して参究・研究・思考を重ね、ある法を証得し、ある果位や資格・名誉を得て、何らかの結果を獲得することを目指すものである。
心性における働きとは、五蘊の無我性を観察し、自我を降伏させ、煩悩を制御し、心を柔軟で善良に保ち、聖賢の無我の心性を備え、私心と我執を除去して自利利他を実践することを指す。具体的には菩薩の六波羅蜜を実践し、福徳の蓄積と戒律の受持を段階的に完成させ、あらゆる人事に耐えて自心を調伏し、怠惰な心を淘汰し、禅定を修めて観照力を高め、煩悩を降伏させ、般若の空性の理を薫習し、心を徐々に空性に近づけていくことである。心性と技術は相互に補完し合い、心性は目に喩えられ、技術は足に喩えられる。目が技術の方向性と高さを決定するのである。
仏道修行は心性と技術を相互に結合して修めるべきであり、一方のみを修めて他方を顧みないのは片輪走行に等しい。両者を併せ持って初めてバランスが得られる。技術面のみの修行とは、理論研究に偏り我性を降伏させず、理論と実践が乖離している状態を指す。仏法本来の目的は衆生が自我を降伏させ無我を証得し、解脱と自在を得ることにある。しかし衆生が無我を修行する目的と結果は却って我性を増長させ、我執を強め、自我をますます膨張させ、心性が以前より劣化し、修行の成果との乖離が甚だしくなる。これが心性を修めず技術のみを修めた結果である。
技術面のみの修行は心性面の修養を伴わず、その結果は徳が位に伴わず後に大乱を招く。仏法修行を資本と見做し、技術を習得後は自らを一切衆生より優れた存在と錯覚し、人上人たらんとし、この技術を以て得意満面となり我慢を増長し、他者を圧倒する資本とする。これは深刻な我相・人相・衆生相の現れであり、技術面のみの修行が生む悲劇的な結果である。甚だしきは我慢我執によって仏法と仏教を混乱させ、衆生の仏法・仏教への信心を破壊するに至る。
修行方法は理論研究のみの技術的作業であってはならず、より重要なのは心性の育成と転換である。もし仏道修行が技術的研鑽のみなら、仏は衆生に清浄な大願を発させ、願力によって修行を導くことを求めないであろう。もし技術的修行のみなら、日夜経典研究と諸理論に没頭し、各種観行に精進し、常人知らざる理論を探究する者が、貪瞋痴の炎なお盛んで、一生涯七住位・六住位・五住位に留まるのは何故か。唯識理論を極めても一歩も前進できないのは何故か。
もし修行が技術的研鑽のみなら、何故三十年座禅しても初禅定を得られぬ者がいる一方、一二年で初禅定を現前させる者があるのか。三十年悟りを開いても初禅の影さえ見えぬ者と、短期間で理論に触れ軽く観行して諸果位を証得する者が存在するのは何故か。仏法用語は未整理でも観行智慧は早く生起するのは何故か。
もし修行が技術的作業なら、菩薩の六波羅蜜は技術的修行か心性的修行か。布施波羅蜜は技術的か心性的か。持戒は技術的か心性的か。忍辱は技術的か心性的か。禅定は技術的か心性的か。心性劣れる者の智慧とは何か。その智慧は菩薩や仏と相応するのか。精進には正精進と邪精進があり、邪精進は技術的、正精進は心性修養である。邪心ある者が仏法で真の利益を得られるのか。菩薩成就の真の証は慈悲喜捨であり、心性が転じなければ慈悲喜捨の心行は永遠に生じず、菩薩の果位は満足されない。
阿羅漢と菩薩の心性、いずれが優れるか。いずれの道業が増上するか。仏に最も愛されるのは誰か。最も早く成仏するのは誰か。技術的修行者と心性的修行者、仏が焦芽敗種と誹り無為の坑に堕すと罵ったのは誰か。仏道修行の最終結果は必ず徳才を兼備し、才あるのみならず徳を要す。徳なき才は歪んだ才であり、邪道に用いられ悪業を造作しかねない。世に才ある者は多いが、善業に用いる者は少なく、悪業に用いる者は多い。悪業に用いるなら才なき方がましである。
仏道修行者は徳を最優先すべきである。徳あれば才は自ずから備わる。才のみで徳なき者は、才多大なれど正用されない。徳あり才なき者は菩薩心性を以て仏力加被により速やかに道を得、徳才兼備の人材となり得る。
故に仏道修行は単なる技術的作業ではなく、本質は心性的修養である。無我無私の者こそ真の菩薩であり、内心に自己と私利のみを抱き、ひたすら自己のために生きる者は真の菩薩ではない。
技術的作業は心性的作業より何倍も容易である。技術は努力研鑽により必ず文字から何かを汲み取り、収穫を得られる。利発さえあれば多くの技術を習得できる。しかし心性は百年かけても降伏困難で、性分は改め難い。技術を修めた菩薩も心性を降伏させなければ真の菩薩ではなく、名目上の偽菩薩に過ぎず、菩薩の働きを永久に発揮できない。
多くの者が日夜観行・研究に心血を注ぎながら、自心を省みることはない。仏法の科学技術を如何に研鑽しても我性と利己性を降伏させず、真に我見を断ち明心証悟を得られない。このような者は菩薩ではない。仏法の科学技術を掌握してもである。現代において、仏道修行を技術的作業のみに終始し、心性に工夫を施さぬ者がいかに多いことか。技術は習得しても徳が位に伴わず、到る所で自我を煽り立て、結局混乱を招く。仏道を学ぶのは頭角を現し自我を誇示するためで、自我を降伏させるためではない。学ぶほど高慢になり、我執を強め、世を乱す。世道はかくして乱される。多くの者の仏道修行は人上人となるため、他人を踏み台にするためで、自我を消滅させ無踪ならしめる発想はない。これは我見を断つか、我見を増長するか。仏教がこのまま発展すれば、ついに天下大乱を招く。
故に真の修持を成し遂げるには、両手を揃えて把握すべきである。心の田地に工夫を凝らし自らを調柔にする一方、観行参究に尽力し実証を重ね、真の意味での聖賢となる必要がある。
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