人を奪って境を奪わず、境を奪って人を奪わず、人境ともに奪い、人境ともに奪わず。 「奪」とは剥奪・分離・遣除・消除・消滅を指す。「人」とは主観的な我、能攀縁の識を指し、「境」とは所攀縁の塵境を指す。この三文字の意味は、禅参究の過程において能と所を剥離消除すべき存在を概括しており、すなわち漸次に五陰我見を断除すべきことを示す。我見あることは遮障であり、障碍である。慧眼開かず、ただ人と境を見るだけで、真心を見ることができない。
凡夫衆生は皆我見を有するが、修学の過程において我見の重点は異なり、ある者は主観的な能に偏重し識に執着し、ある者は客観的な所に偏重し境に執着し、ある者は両者をともに執する。我見我執あるが故に心空ならず、参禅に果なし。この時、眼ある禅師が機に応じて教示し、面と向かって空を迫り、学人の執する能所を奪い去り、眼障を除去してその法眼を浄めさせる。これが前三料簡である。法眼浄めた禅者は人境ともに空じ、空処に落着する。向上の一路において実相を悟らしめるため、禅師は再び機に応じて教示し、学人に空処より轉身せしめ、人と境において「有」を悟らしめる。かくして柳暗花明また一村、境界転じて大事は初歩的に解決される。第四料簡は大乗見道を完成し、向上の路を開く。故に我見を断たざれば、悟りを開くこと能わず。
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