鼻が香りを嗅ぐ際、匂いは現前に存在する現量の境であり、鼻識と意識はともにこれらの現量の境を了知することができる。鼻識は第一刹那において匂いが鼻粘膜を刺激する程度を現量で了知し、続いて意識は第二刹那においてその匂いが香りか臭いかを了知する。その後、意識はさらにどの種類の香りあるいはどの種類の臭いであるか、香臭がどの程度に達しているか、どの物体から発せられたものか、自分からどのくらい離れているか、あるいは近いかなどを了知する。これらの法塵に対する意識による現量の了知は、比量や非量の了知となる可能性もある。なぜなら、意識の匂いに関する知識が不完全であるため、完全に現量の了知とはならないからである。智慧が完全に円満に達した時のみ、一切の法を了知することがすべて現量の了知となる。これはおそらく仏陀お一人のみが成し得ることである。
もし仏陀が比量や非量の上の了知を行う必要があるならば、仏陀は一切種智の所有者ではなく、仏陀の智慧にはまだ不円満な点があり、自らが現量で知ることができない法が存在することを説明している。それでは一切種智の仏陀と呼ぶことはできず、せいぜい妙覚菩薩に過ぎない。仏陀は現量において円満に世間の一切の法を了知し、比べ合わせたり想像したり思索したりする必要がない。その智慧の徳能が円満に具足しているゆえである。
飲食を味わう際、舌識は飲食の粗い味塵を現量で了知する。第一刹那の了知は必ず舌識によるものであり、第二刹那は意識による了知である。第二刹那以降は両者が同時に了知する。意識心は飲食の微細な味塵を了知し、具体的な酸味、甘味、苦味、辛味、塩味、淡味及びその程度を了知する。味が濃すぎて適応できない場合、飲食を吐き出すことになるが、これは意識による現量の了知の結果である。もちろんその中には比量や非量の了知も含まれる。記憶に基づいて了知するのは比量であり、ある種の飲食の味だと想像するのは非量である。味塵に関する知識の理解が限定的である場合、比量や非量の了知を用いざるを得ず、その結果は往々にして誤りである。現量の了知であっても、時に誤りがあり、必ずしも完全に正しいとは限らない。意識が比量や非量の了知を行う際、それは意識の独頭境界であり、前五識はこの種の了知には参与しない。
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