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煩悩无尽誓願断
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日常法話

2018年02月28日    水曜日     第5開示 合計122開示

意根における作意心所法はどのように引き起こされますか

問:意根の作意は修行の要諦である。その意を知ることは修行に大いに資する。特に禅定を修めるにあたっては、功は意根にあり、意根を知らずしてどうして禅定を修められようか。意根の作意の密意を知らなければ、どうして秘密に触れられようか。意根の作意はすべて貪瞋と相応し、それ以外にはない。もちろんこれは凡夫の意根である。しかし仏菩薩の清浄なる意根は如何に作意するのか。意根に貪瞋も欲の動力もなければ、如何に作意するのか。意根は捨受の状態において作意しうるのか。意根は無記の状態において作意しうるのか。

答:意根の作意は貪瞋などの煩悩心所によって引き起こされるほか、欲心所によっても引き起こされる。欲には善欲と悪欲があり、また不善不悪の欲もある。善欲とは大願力であり、悪欲とは貪瞋痴である。意根の作意にはまた習慣的な作意も一部あり、それは意根の慣性作用によるものである。

瑜伽師地論の原文:如何にして能く作意を生じ正しく起こすか。四つの因によってである。一には欲の力によって。二には念の力によって。三には境界の力によって。四には数習の力によって。如何にして欲の力によるか。謂わく、若し是の処に心に愛著あれば、心は即ち彼に多く作意を生ず。如何にして念の力によるか。謂わく、若し彼に於いて既に其の相を善く取り、極めて想いを作せば、心は即ち彼に多く作意を生ず。如何にして境界の力によるか。謂わく、若し彼の境界が或いは極めて広大、或いは極めて可意なるが正しく現在前にあれば、心は即ち彼に多く作意を生ず。如何にして数習の力によるか。謂わく、若し彼の境界に於いて既に極めて串習し、極めて諳悉(あんじつ)すれば、心は即ち彼に多く作意を生ず。若し此れに異ならば、応に一つの所縁境に対し、唯一の作意が一切時に生ずべきである。

これは作意心所法が生じる縁を説いたものである:欲、念、境界、習性。第一に、欲力とは、識心が境界に貪着し愛着することを指し、こうして識心はこの境界上で絶えず作意し、絶えず思惟・決択を起こし、如来蔵は新たな境界と心行を絶えず生じさせることになる。

第二に、念力とは、識心が境界に対して絶えずその相を執取し、絶えず了知することによって、識心は境界に対して作意心所を絶えず生起し、遂には絶えず思惟と決択を起こし、如来蔵は後続の心行と境界を絶えず配合して生じさせることを指す。つまり、欲と念がなければ、識心は作意できないという意味である。特に意根の欲と念が重要で、意根が作意して初めて六識が生じ、六識が作意できるのである。

第三に、識心が絶えず作意するのは、境界の力が余りにも強大であるため、識心を牽引して境界に作意せざるを得なくなり、如来蔵が配合して後続の心行と境界を生じさせることによる。

第四に、常に接触し非常に熟悉した境界に対しては、識心はこの境界に多く作意し、思心所は絶えず生じ、如来蔵は後続の心行と境界を絶えず生じさせる。この中で意根の串習力は非常に大きく、生生世世あるいは無始劫にわたって同じ法を熏習しているため、後世これらの法と境界に遇えば絶えず作意して攀縁し、その力は強大で、意識が強くなければ制御できない。例えば貪欲、貪食、貪眠、貪財などの貪習がこれに当たる。

もし以上の四つの情況でなければ、識心はただ一つの所縁境界に対し、ただ一つの作意のみを持ち、かつ一切時中においてそうあり得る。したがって攀縁性とは意根の習慣的な作意をも指し、禅定を修めようとするならば、意根の慣性的作意を制御・変更し、その攀縁性を降伏させねばならない。

業種が成熟するか否かは、意根の作意と必然的な関係はない。業種が成熟するか否かは、如来蔵が自然に了知し、その後如来蔵は相応する縁を生じ始め、業種に従って運行し相応する法を生じさせる。

——生如法師の開示
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意訳:念の力

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意根不可思議の智慧

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