衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法師ウェブサイトロゴ

日常法話

2018年03月01日    木曜日     第4開示 合計126開示

意根の智慧

第六識と第七識の智慧の違いは、末那識が意識のように六塵の境界に対して細かく具体的に了別することができないだけで、それ以外の点では、末那識の智慧は非常に優れたものです。私たちが世の中のことに応対する際、特に非常に緊急なことや非常に忙しいことに対処するときは、末那識の経験と智慧に全面的に頼っており、意識では対応しきれず、分析も処理も追いつかず、末那識の指揮と手配に従うしかありません。このような状況は、縁に従うとも言えますし、運を天に任せるとも言えますが、結局は解決され、時には非常に円満で思い通りになることもあります。

末那識には独特の大いなる智慧があり、例えば、危険に直面しても恐れず、泰然自若としており、秩序正しく整然としていること、雄大な志と豪快な情熱、謙虚で寛大な心、非凡な気魄などは、すべて末那識の智慧によるもので、非常に優れています。特に、何度も生まれ変わり人となり、指導者や将軍、大臣などを務めた経験のある人、経験と見識が豊富な人は、末那識の智慧が非常に強く、これらの行動は主に末那識の智慧に依っており、すべての事柄を決定し処理し対応しています。意識はしばしば補助的な役割を果たしています。

将軍が陣頭指揮を執る際、戦場での緊急の決断や重要な戦略は、往々にして末那識の無言の智慧と経験に頼っており、意識はあまり役に立ちません。福徳があり、自らの考えを持ち、深謀遠慮のある人は、事に遭遇しても非常に落ち着いており、急いで対応したり決断を下したりせず、時が来れば自然に考えや方法が浮かんできます。それは末那識が考え出した方法に依っており、末那識は自ら方法を持っているのです。芯が強いことも末那識によるもので、俗に言う「老猪腰子(しっかり者)」とは、末那識自身が主張を持っており、意識は気にしなくてよいという意味です。

大いなる智慧を持つ人、聡明な人、理性的な人、教養のある人は、やはり末那識の智慧を主としており、意識は狡猾に策略を巡らすのではなく、末那識が自ら手配しています。この大いなる智慧は、末那識が思量した結果であり、末那識の経験が豊かである結果でもあります。

一人の有能な人材を急に育成するのは間に合わないものであり、つまり急にその人の意識に学習させ、末那識を熏習させるのはもう間に合わないということです。その人が以前から必要な素質を備え、先天的に具足していなければならず、それは末那識が持つ、すでに熏習が成功した、生まれつきの智慧です。いわゆる智慧の根、善根、福徳とは、末那識が持つ、生まれつきのものを指しているのです。

——生如法師の開示
前へ前へ

三量と現量の境地とは

次へ 次へ

証拠確実にして初めて意根を納得せしむ

ページトップへ戻る