衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2021年07月25日    日曜日     第1開示 合計3486開示

愚かとも阿羅漢果を証し、賢くも三悪道を免れず

周利槃陀迦(チューリパンタカ)の意識は非常に愚鈍で、一句の仏法理論すら記憶保持できず、その思惟力はさらに弱く、推理、整理、帰納、概括、分析、比較なども全くできなかった。ただ鼻息を観じるだけで、なぜ四果阿羅漢を証得できたのか?古今東西の文学者、文人は三蔵の教えを極めて研究し、多くの著述を残し、詩集や偈頌(げじゅ)は珠玉の言葉が連なるほどであったが、なぜ証果の影すら見られないのか?仏法は説くことにも、理解することにもなく、文詞がどれほど優美で人を感動させるかにもない。能く受用することこそが王道である。あたかもリンゴを口に入れ、胃に飲み込み、腹を満たすことが最大の福利であるように、リンゴを研究し、リンゴに関する論文を書いて賞を取るよりも、はるかに実益がある。

周利槃陀迦のように愚かで理論を理解できない者が、鼻息を観じる際には、意識の種々の功徳は基本的に用をなさなくなり、観行を行う際にも小手先の技を用いることは不可能であった。鼻息などの諸行が生滅すること、苦・空・無常・無我であることを分析できず、諸行無我、五蘊無我であることを推論することもできなかった。これはかえって意識による情思意解を省くこととなり、意根の機能作用が十分に発揮される結果となった。その結果、彼は我見を断つだけでなく、直接四果阿羅漢を証得したのである。ここに仏法の最終的な修証は意識上で努力することにないことが明らかである。理論が分からなくても構わない。用功の方法と方向が正しく、かつ精勤して修行できさえすれば、同じく悟りを開くことができるのである。

一方、三蔵を極め、五車の学識を持つ理論家、研究者たちは、意識上でしか努力できなかった。雄弁を振るい、華麗な修辞を駆使し、人々の称賛を受け、風光明媚で名声が赫々としていても、結局は何も得るところがなかった。得をしたところが、まさに失いをしたところである。例えば蘇東坡は、仏法をどれほど理解し、どれほどの感悟を持っていようとも、修証においては全く取るに足らないものであった。文人の習気は重い障道の因縁であり、克服することは容易ではない。琴棋書画など、世間のあらゆる技芸はすべて障道の因縁である。世の人はこれを以て栄誉とするが、実に倒錯している。理論を好み、何かを得ることを好む学人たちは、反省すべき時ではないだろうか?

——生如法師の開示
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