甲:観行とは実際に見て観察することであり、六根が一つの事柄に集中して参与する。意根が散漫にならなければ全過程に参与でき、観行によって得られたものは意根が認める。想像とは五根が参与せず、意識のみが独りで空想し、意根は参与できず認めることもない。
乙:観行の対象は客観的に存在する事物に基づく。想像は主観的な臆測に属する。
丙:観行は意根を主とする心理活動であり、観行の過程で意識が必要な導きを行い、意根に対象を現量のまま如実に観察させる。一方、想像は意識心を主とする心理活動であり、主に意識が独影法塵を非量で了別するため、意根に実質的な影響を与えにくい。
丁:想像は独頭意識の運作であり、意根も参与する。意根はすべての法を黙って容受するため、了別も行っている。想像は独影境に属し、非現量の了別である。観行は意識と意根の縁がともに性境であり、帯質境に属する現量了別であるため、意根を染めやすく、意根に法を証させやすい。観行はいずれも意識と意根に現量了別を行わせる。持続的な現量了別(その過程で他の根も参与する)には定力が必要であり、意根が定まって初めて実証できる。
戊:まず観行には一定の定力が必要であり、定力に支えられない観行は想像の範疇に陥る。次に、観行は定力のもとで行われるため、意根が縁する他の法は少なく、意識が導く法塵に集中できる。つまり観察対象の法塵に関心を持ち、想像過程では意根も参与するが全身全霊では参与せず、他の法を縁とする。第三に、観行は意識の導きから次第に意根主導へ移行し、注目する塵境を了別する。対する法はすべて現量境界であり、意識の想像は非量了別である。現量境界のみがより客観的実態に合致し、意根を確信させられる。要するに、意根が真に注目し参与して初めて、意根の巨大な能力を発揮でき、知見を徹底的に変え正しい選択ができる。
想像と観行ではどちらが容易か? どちらがより楽か?
甲:想像の方がはるかに容易で、妄想は招かずとも自ら来る。多くの人が自らを欺き他を欺いており、禅定もないのに観行で証果できると称し、想像を観行と取り違えながら自覚していない。修行の原理を理解すれば、ほとんどの時間は自力修行に頼るべきであり、終日さまざまな理論書の海に流連して他人の見解や見地を汲み取り、他人の宝を数える必要はない。結局自分は半文の得にもならないのだから。
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