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日常法話

2021年07月25日    日曜日     第2開示 合計3487開示

観行 (vipaśyanā-caryā) と想像の違いは何ですか

甲:観行 (vipaśyanā-caryā) とは、真実に見ること、観ることであり、六根が一つの事に集中してすべてが参与している状態です。意根が逸れなければ、全程参与でき、観行で得たものは意根に認められます。想像は五根が参与せず、意識だけが空中に思い描き出すものであり、意根は参与できず、認めることもありません。 

乙:観行の対象は、客観的に存在する事物に基づいて行われるものです。想像は主観的な憶測に属します。 

丙:観行は意根を主とする心理活動であり、観行の過程では、意識が必要な導きを行い、意根に所縁の対象を現量で如実に観察させます。一方、想像は意識心を主とする心理活動であり、主に意識による独影法塵の非量の了別であり、意根に実質的な影響を与えることは容易ではありません。 

丁:想像は独頭意識 (mano-vijñāna-eka-citta) の働きですが、意根も参与しています。意根は一切の法を黙して容れるので、了別もしているのです。想像は独影境に属し、非現量の了別です。観行は、意識と意根の所縁がいずれも性境であり、帯質境に属し、現量の了別に属するので、意根を熏染しやすく、意根に法を証させます。観行はいずれも意識と意根の両方に現量の了別をさせます。直接継続する現量の了別(その間にも他の根が参与します)には定力が必要であり、意根が定 (samādhi) してこそ、はじめて実証できるのです。 

戊:まず、観行には一定の定力が必ず備わっていなければならず、定力に支えられていない観行は想像の範疇に陥ってしまいます。次に、観行は定力のある状態で行われるものであるため、意根は必ず他の法を所縁とすることが少なく、意識に導かれた法塵に精力を集中でき、すなわち観る所の法塵に関心を持つことができます。一方、想像の過程でも意根は参与しますが、意根は全身全霊で参与することはなく、他の法を縁じます。第三に、観行は意識に導かれることから次第に意根が主導となり、関心を寄せる塵境を了別するようになり、対する所の法はすべて現量の境界ですが、意識の想像は非量の了別であり、現量の境界のみが客観的実際により合致し、意根に確信させることができるのです。要するに、意根が真に関心を持ち参与してこそ、意根の巨大な能力を発揮でき、知見を徹底的に変え、正しい選択を行うことができるのです。 

想像と観行、どちらが容易か? どちらが楽か? 

甲:想像のほうがはるかに容易です。妄想は招かれずとも勝手にやって来ます。 それゆえ、多くの人が自他を欺いていることを知るべきです。禅定がなくても観行ができ証果ができると言い、想像を観行と見なしながら自覚がないのです。修行の原理を理解すれば、極めて大多数の時間は自力による修行に頼っていることが分かり、終日、種々の理論書の海に流連して他人の見解や見地を吸収し、他人の宝を数えても、自分は結局半銭にもなりません。

——生如法師の開示
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