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日常法話

2018年03月04日    日曜日     第4開示 合計143開示

依他起性と遍計所執

問:意根は遍計所執性であり、天界でも地上でもあらゆる所に攀縁する。これは主導的な識であり、必ず六識を伴う。六識もまたあらゆる所に攀縁するのだから、理屈上は遍計所執性であるべきである。しかし六識は如来蔵が縁に依って生じるものであり、したがって依他起性である。因と縁に依るということは、すなわち依他起である。意根もまた如来蔵が業種によって生み出すものであり、理屈上は依他起性であるはずだ。意根は真実の出生という観点からは依他起性と言い、虚妄の見相という観点からは遍計所執性と言う。したがって、外塵と内塵、諸識と業種は、すべて如来蔵によって生み出され、すべて依他起性である。如来蔵によって生み出されないものこそが遍計所執性である。したがって意根は依他起性であると言うべきなのか?

答:意根は最初の時、つまり無始劫以前から存在していた。その時、如来蔵の心体にはまだ五陰による造作の業種がなかったが、意根は依然として存在していた。その存在理由は、意根に無明があるためであり、これを無始無明という。一念の無明もまた無始であり、これも無始無明と呼ばれる。意根が生まれ存在するための縁は極めて少なく、如来蔵と無明、そして諸仏菩薩の願力があれば足りる。したがって意根の依他起性は顕著ではない。

意根の最も主要な特性はその執着性であり、凡夫の段階では一法も執着しないものはなく、これを遍計執性という。この執着性のゆえに、分段生死および変易生死には終わりがない。六識の出生と存在は主に意根の遍計執性に由来する。六識が生まれるための縁は意根よりも多く、因縁が具足して初めて六識は生じる。したがって六識は依他起性であると言われる。六識にも執着性はあるが、その執着性は依然として意根の影響を受け、染められ、調整されている。その執着性は意根と比べて突出したものではない。主要な特性から言えば、六識は依他起性であり、六識を遍計執性であるとは言えない。なぜなら六識は一切の法に普遍的に運行できるわけではなく、遍くない点が多くあるため、六識を遍計執性であるとは言えないのである。

——生如法師の開示
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