衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年03月04日    日曜日     第2開示 合計141開示

瑜伽師地論選講

原文:又有三种诸有情类。欲为根本作业方便。一为得胜欲。二为得胜自体。三为证胜解脱道。 

解釈:また三種の衆生があり、欲求を根本の出発点として、さまざまな方法を用いて修行し、解脱の目的に達しようとします。第一の欲望は、衆生が修行によって最も殊勝な果報を得ようとするものであり、大乗菩薩の果を証し仏道を成就するためのものです。これは最極殊勝で、比類のないものであり、無上法と呼ばれ、その果報は無上の果です。

第二の欲望は、衆生が修行によってより殊勝な五欲の楽とより大きな福報を得ようとするものであり、その結果、天に生まれて福を享受し、福が尽きればまた堕ちることになるかもしれません。色身の果報としては、天人の色身と生存の境界を得ますが、その結果もまた生死の繋縛です。 

第三の欲望は、衆生が修行を通じて、最終的に三界を出離する殊勝な解脱の果報を得ようとするものであり、その結果、三界を出離して一時的な解脱を得ることはできますが、仏の究竟の解脱を成就することはできません。

欲は生死の因であり、大乗仏法への追求は、無余涅槃に入らず、永遠に三界の中で広く有情を利益することにつながります。六識に欲があり、意根にはさらに欲があります。主に意根の欲があるためにこそ、生死は絶えず、輪回はやむことがないのです。

もし六識だけに欲があり、意根に欲がなければ、六識の欲も働かず、生じたかと思うとすぐに滅し、生死も必ず了わります。もし六識だけが欲を断ち、意根が欲を断たなければ、意根は必ず主宰として欲求を持ち、六識は必ず貪欲の業を造り、生死は必ず了わらず、輪回は必ずやむことがありません。

意根が三界に欲求を持てば、必ず三界への貪愛を断除できず、必ず三界を出離できません。阿羅漢は意根の我執を断除したために、三界への貪愛を断除し、すなわち三界への欲求を断除したことによって、はじめて三界を出離し、無余涅槃に入ることができるのです。もし大乗に回心した阿羅漢であれば、大乗法に対して愛楽心を生じ、大乗法に欲求を持つため、意根がこの欲求に繋縛され、命終しても必ず無余涅槃に入らず、必ず欲界の色身五蘊をもって大乗法の修学を続け、明心見性と成仏を求めることになります。これが通教菩薩の善法欲です。

もし意識だけに善法欲があり、意根になければ、意根は善法欲に繋縛されず、三界の法に対して欲なく求めるところがないため、命終すれば必ず無余涅槃を取ることになります。 

意根がすでに飲食欲を断っていれば、意識がたとえ欲界の美食に対して多く作意し何度も見たとしても、意根は貪欲を生じることもなく、美食を貪り食べたいとも思わず、ただ縁に随うだけです。意根がすでに男女の欲を断除していれば、意識がたとえ異性を何度も見たとしても、その後の心行は生じません。意根が主宰として攀縁せず、貪欲しないため、意識は余計な思いと欲求を持つことができないからです。意根がすでに貪欲を断っていれば、衣食住の用に対して貪り求めることがなく、意識がたとえ豪華で贅沢な生活環境に出会ったとしても貪りを生じず、その衣食住の用も依然として以前の習性に沿ったものとなります。これは意根の習性であり、衣食住の身口意行は意根が主宰するため、必ず意根の習性に合致するのです。

成仏したいというのは勝欲であり、明心見性したいというのは勝欲であり、我見を断し解脱の果を証したいというのも勝欲です。もし意識だけにこの勝欲があり、意根になければ、意根は主宰として精進修行することなく、自ら三無漏学を修行せず、自ら持戒せず、自ら定を修めず、自ら経を読んで思惟することもなく、まして観行を起こして法義を参究することもなく、同様に朝から晩まで、念念が修行の上にあるということもありません。意根に勝欲があってこそ、自ら進んで六識に修行を促し、意識の念念をことごとく学仏修行の上に置かせ、意識にあらゆる妨げと障害を排除する方法を考えさせ、精進して修行させることができるのです。 

学仏の後、意識は肉食への貪欲を降伏し、肉を食べることは衆生と悪縁を結ぶことであり因果があると知りましたが、意根は肉食への貪欲を降伏していません。肉食に出会ったとき、意識は食べられないと知り、意根は少し食べたいと思い、意識は意根に勧めて言います。肉を食べてはいけない、精進料理を食べるべきだと。意根はしばらく堪えます。しかししばらくして意識が勧めないとき、うっかりすると、意根は一口食べて食欲を満たそうと決め、そこで一口肉を食べてしまいます。意識が意根に随順し警戒を緩めると、意根はさらにもう一口食べようと決めます。意識が意根を責めなければ、意根は自分を放縦し、絶えず食べ続け、最後には意識は意根を制御できなくなり、いっそのこと食べてしまえ、もう食べてしまったのだからとなります。禁煙の失敗もこの理であり、ギャンブルや麻薬を断つことの失敗もすべてこの理で、意識は実のところ意根を制御できず、意根の習慣は意識の理性をはるかに上回るため、意識はやむなく意根に従うしかないのです。

したがって、意識だけが修行し、意識だけが煩悩を断ち、意根が煩悩を断たなければ、それは真の断煩悩ではありません。意識が我見を断ち、意根が我見を断たなければ、それも真の断我見ではなく、意識が理を明らかにし、意根が理を明らかにしなければ、真の明理ではありません。一本の足で歩ける者はいません。意識と意根の二本の足は、歩調を合わせるか、あるいは一前一後に続かなければ、よく道を歩むことはできないのです。

心が善に向かう人は、ほとんどすべての人が意識が意根を導き勧めた経験を持っています。意根は思惟できず、善悪の好みを知らないため、意識に多くの働きをしてもらい、意根を多く開導して善に向かわせてこそ、はじめて身口意行が善になるからです。意根の主宰性と決定権は、この一点だけを見ても、意根の強大な機能作用を示しています。種々の事例から見ると、意根に希求がなく、欲がなければ、すべてが成立せず、すべてが消失し、必ず無余涅槃の中にあることになります。

——生如法師の開示
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