私たちが是非や他人の過ちに向き合う際、これらの境界を空じたり避けたりできず、必ずや人事を解決しなければならない時はどうすべきか?人事の境界が虚妄で実体のない性質であることを観行し、一切の法は無我、無人、無衆生、無事相であることを観行すべきである。口でどうしても人事について語らなければならない場合でも、ただ意識心のレベルで客観的に評価し、理にかなった方法で理にかなった解決を図るべきであり、内心に動揺を起こすべきではなく、人事の筋書きに引きずられてその中に陥り、自ら抜け出せなくなるべきではない。そうなれば全ての覚照の力を失い、我相・人相・衆生相・事相がことごとく現前し、かつそれらを実体あるものと執着し、心が事相に染汚され、染汚された業種が自らの如来蔵に貯蔵され、後世の果報を自ら受け、得るものよりも失うものの方が多くなる。
どうして賢者が、他人の過失を自らの心中に蔵し、自家の田地を侵汚し、後世にまで累が及び、清浄を得られないことがあろうか。他人の過失を見たら、自らを顧みて自心を照らし返せ。人を責めて自らを責めないことなかれ。誰が修行するかはその人自身の問題であり、誰が他人に代わって修行し、人に代わって成就し、自ら業果を背負うことができようか?そんな道理はない!
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