多くの人が仏教を学んで十年以上、あるいは二、三十年経っても、今なお仏教を学ぶ目的が何かを知らず、多くの仏教の理を学びながらも、それを用いて自心を覚照し、自心を降伏させ、自心を変えることを知らず、むしろ他人を覚照するために用いている。その結果、煩わしい人や事に遭遇すると、心に大きな波が立ち、長く平静を保つことができず、是非紛争が絶えず、仏教修行の目的と方向から外れてしまう。学んだ理は依然として理のままで、遭遇した事は依然として事のままで、理と事を結びつけることもできず、円融することもできず、自心の功徳を受用することができない。もし仏教を学ぶ者が事を見る際に理から大きく離れ、単独に存在する事となってしまえば、学んだ理もまた意味を失ってしまう。
では、娑婆世界における人事紛争や煩悩にどのように向き合うべきか。大乗仏法を学んだ者は皆、一切の法は如来蔵によって幻化されたものであり、実在する人事物理は存在せず、すべてこの如来蔵という魔術師が縁に依って七大種子を出力して生成したものであることを知っている。あたかも絵師が墨を散らして描いた一幅一幅の絵画のようであり、私たちは絵画を実物と見なしてはならず、絵画の中の人物や風景を実在と見なして貪ったり厭いたりしてはならない。すべての絵画は彩色された墨で描かれたものであり、一つの絵具の堆積に過ぎない。どうして智者が一山また一山の絵具に執着して分別し、心を動かして念いを生じるだろうか。真の智者もまた、如来蔵が七大種子を用いて積み上げた人事物理や山河大地に対して執念を生じるべきではない。
このような観行を多く行い、常に覚照すれば、自心が人事紛争に陥って抜け出せなくなり、仏教修行の真実の利益を得られず、さまざまな仏教学の理論知識の蓄積に無駄に努力し、絵に描いた餅では飢えを癒せないという事態を招くことはない。
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