思心所の「思」は、思量、造作、決定という意味を含み、これらの心の働きはすべて運行性に属し、行に属する。行は行蘊とも呼ばれ、行陰とも呼ばれる。なぜ行陰と呼ばれるのか。もし私たちがこれらの心の働き、これらの機能作用をすべて真実のものと見なし、我および我のものと見なすならば、それは真実の法の体性を遮蔽し、妙明真心を遮蔽することになり、したがってこれらの法の運行のみを見て第八識の本体機能性を見ることができなくなる。それゆえに行もまた行陰と呼ばれるのである。なぜ行蘊と呼ばれるのか。心識の運行は様々な縁によって集起し蘊集された一種の機能作用であるため、行蘊とも呼ばれる。実際にはすべて心所法であり、六識心の一種の機能である。
思は一種の行為造作であり、行為造作があり、変化があり、運行できるものはすべて行と呼ばれる。行陰の範囲は思心所の範囲よりも広く、行陰にはさらに色身における運行機能も含まれる。身心両面の運行が完全な行陰の範囲である。思心所の運行も非常に複雑であり、その作用は思量、権衡、抉択、造作であり、最後の段階は決定造作である。思心所には三つの過程がある:思考、思惟、分析、判断を含み、抉択を下し、最後に実際の行動を取る。前五識の思は比較的単純で、境に趣くか離れるかのみを決定する。第六識の思は最も複雑であり、反復して考量し思惟しなければならず、その智慧力は比較的強い。前五識の思は、第六識の想と思に依って初めて運行できる。したがって思そのものが意行であり、意行が造作された後には身行と口行が生じ、こうして五識もまたこれに参与することになる。
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