戒定慧の三無漏学は、単に意識が修学し具足すべきものではなく、主に意根も意識の修学に従って具足する必要がある。戒定慧の三無漏学を修学する際、もし意根が戒行を守らず、心が散乱し放逸で懈怠し、悪業を造ろうとするならば、意根が主導権を握り、必ず六識の身口意の行いで悪業を造らせる。したがって戒律は主に意根を戒めることに重点を置く。もし意根を戒めず、六識だけを戒めると、最終的に戒律を保持することは成就できない。六識は自らを制御できず、意根が戒を破ろうとする時、六識にはどうしようもなく、ただ従うしかない。意根が戒を守れば、六識は必然的に戒を守る。戒律の保持には表面的な戒律保持と、内心で真に戒を犯さない戒律保持がある。真の戒律保持とは、意根が戒を犯さず、内心で戒を守ることである。表面的な戒律保持は、偽って戒を装いながら、心では戒を犯している可能性もある。
意根に禅定があって散乱しなければ、はじめてあちこちに攀縁せず、六識も禅定を持つことができる。もし意根が散乱しているなら、意識が禅定を得ようとしても不可能である。意根の心が仏法に定まってこそ、意識は一心に専念して修行し、仏法に定まって動揺しない。もし意根が動揺して定まらなければ、意識にはどうしようもない。戒によって禅定が生じ、禅定によって智慧が発する。禅定が強くなってこそ、意識と意根の両方が大いなる智慧を生じ、最終的に識を転じて智となす。禅定がなければ大いなる智慧は生じず、識を転じて智とすることはできない。
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