「受蘊」の受は六識心の心所法であり、六識心の一つの機能性である。実際には識が塵に触れた後の感受作用であり、最初の領受・領納の相は単に六塵を受け入れた段階で、まだ粗い相に属する。喜怒哀楽の感受が生起する段階に至って初めて細かな相となる。受蘊は単に識が塵に触れる最初の受ではなく、最初の受は領納・接受であり、苦楽受はまだ生起していない。受蘊には領納受と後期の三種の受が含まれる。想は、了別だけでなく取相の作用もあり、意識の想は名言と相応する。想の段階にも粗相と細相があり、大まかな了別と微細な了別、そして執取の相がある。粗と細の了別を経た後、六識の粗い感受と細かな感受が生じる。
如来蔵に含蔵される受の種子は、識種子の外に存在しない。識種子が運行する際、受心所法の運行を伴うため、識心に感受機能が生じるのであり、識種子の外に単独で受の種子が存在するわけではない。五遍行心所法には種子がなく、識心に依附して初めて運行し、識心の助伴となる。識種子が生起すると、五遍行心所法は同時に運行を開始し、識心に依附する。したがって受に単独の種子はなく、想にも単独の種子はない。六識種子が生起した後、識心が運行を開始すると、受心所と想心所が伴って運行する。五遍行心所法はすべてこのように作用し、八識はそれぞれ独自の五遍行心所法を有する。
五遍行心所法は識心の了別過程において反復的に運行し、一度で終わるものではない。運行が開始されると、その順序は入れ替わり逆転し、一定ではない。したがって六識の受は一度や二度の運行で終わらず、無数に運行する可能性がある。想心所と思心所も同様であり、作意と触心所法の運行回数は比較的少ない。六識は六塵への作意を継続し、六塵に触れ続けても動じないが、受・想・思心所は反復往復の運行を経て初めて最終的な訣擇に至り、六識による六塵の了別が完了する。心所法の運行は極めて微細であり、仏地に至って初めて完全に観察し得るものである。
2
+1