衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年03月08日    木曜日     第7 回の開示 合計175回の開示

意根の心所法(三)

戒・定・慧の三つの漏れなき学びは、単に意識が修学し具足すべきものではなく、主として意根も意識の修学に従って具足されなければならない。戒・定・慧の三無漏学を修学する際、もし意根が戒行を守らず、心が散乱し放逸で懈怠し、悪業を造作しようとするならば、意根が主導権を握り、必ず六識の身口意行に悪業を造作させる。故に戒律は意根を戒めることを主とする。もし意根を戒めず、ただ六識のみを戒めれば、最終的に戒律を保持することは成就できない。六識は自らを主導できず、意根が戒を犯そうとする時、六識は全く手の施しようがなく、ただ従うのみである。意根が戒を守れば、六識は必然的に戒を守る。戒律の保持には表面的な戒律保持と、内心真実に戒を犯さず保持するものがある。真の戒律保持とは、意根が戒を犯さず保持し、内心で戒を守ることである。表面的な戒律保持は、偽って戒を保持する装いでありながら、心は戒を犯しているかもしれない。

意根に定があって散乱しなければ、初めて方々に攀縁せず、六識も定を持つことができる。もし意根が散乱すれば、意識が定を得ようとしても不可能である。意根の心が仏法に定まってこそ、意識は一心に専精して修行し、仏法に定まって動揺しない。もし意根が動揺して定まらなければ、意識はどうすることもできない。戒によって定が生じ、定によって慧が発する。定が強くなってこそ、意識と意根が共に大いなる智慧を生じ、最終的に識を智に転じることができる。定がなければ大いなる智慧を生じることはできず、識を智に転ずることもできない。

——生如法師の開示
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