衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年03月10日    土曜日     第2開示 合計182開示

前六識の知

六識の体性と機能は、了別と分別であり、いわゆる了別分別とは知ることである。知がある限り、六識の存在がある。この知は、時には非常に明らかに感じられ、私たち自身もそれを感知できるが、時にはあまり明らかではなく、自分が知っていることに気づかないこともある。自分が心の中に知があると自覚するとき、それが意識の証自証分である。この知は時には内なる声や言語文字の形をとり、時には声もなく、言語もなく、文字もない。

この知には時には念があり、時には念がない。念があるかどうかに関わらず、すべて意識の知である。念のない知は、多少の定力がある状況下、あるいは他の特殊な状況下でのみ現れる。例えば驚いたとき、極度の歓喜、悲哀、あるいは入定時、この時の心は決して無知ではない。知がある限り、自分に念がないこと、心が静かであることを知っている。この知こそが意識心が法境を知る知である。

もし五境の境界をはっきりと知ることができるなら、そこには五識の知がある。もちろん第八識と第七識の知からも離れていない。意識心が自らを内観できるとき、自分に知があること、あるいは何かを知っていること、自分の心の状態を知ることができる。これが意識の証自証分である。私たちの智慧が不足し、定力も足りないとき、この内観する能力は非常に弱く、自分の心の状態を完全に真に了知することもできず、自分の貪瞋痴の煩悩を検出することもできない。したがって煩悩性障は主動的に降伏されず、修行は進歩しにくい。

——生如法師の開示
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真妄不分の誤解はなぜあるのか

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