衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年03月10日    土曜日     第1開示 合計181開示

自証分と証自証分

意識が自らの現前の状態を知ることは、すなわち反観であり、証自証分である。自らの現前の状態を知らない時は、意識の反観力が弱く、心が粗雑で智慧が劣っていることを示し、定力が欠如している。多くの者は煩悩が顕現しても自らに煩悩があることを知らず、無知の時も自らが無知であることを知らない。このような意識心は根本的に覚醒しておらず、反観力がなく、智慧性が極めて乏しい。念々に自らを知り、時々に自覚すること、これが意識の証自証分である。「知る」は自証分であり、「自ら知る」こと、即ち自らが知っていることが証自証分である。証自証分には二つの知があり、自証分には一つの知がある。

意識が自らの置かれた状態を知り、自らを了解し認識することは証自証分であり、自己覚知とも呼ばれ、即ち自覚であり、了知に対する了知である。人は自らを知る明(自知の明)を得ることが稀であるが、証自証分こそが明であり慧である。このような者は理智を具え定力があり、導かれやすい。

いわゆる自証分とは、自ら相分を了知し、相分を証得し、相分を知ることである。知があること、何を知るかに関わらず、全て自証分である。相分が生起する時、相分があることを知る。この「知」は見分であり、見分と相分があることを知った時点で自証分となる。例えれば:見ることは見分であり、まだ結果がない段階である。見えたことは自証分であり、その中に見分と相分を含む。聞くことは見分であり、まだ結果がない段階である。聞こえたことは自証分であり、見分と相分を含む。これに類推すれば、結果を伴うものは自証分であり、まだ結果のないものは見分である。自らを反観し、自らの一切の行為・造作を監視するのは証自証分である。心に警覚がある者は証自証分が現前しており、警覚がなければ必ずしも証自証分があるとは限らない。

眼識の証自証分の例:眼識が陽光を見た時、陽光が眩しすぎて目を刺すように感じると、眼識は直ちに目を閉じて見ないようにする。しばらくして意根が太陽を貪るか何らかの理由で陽光を見ると決めると、眼識はやむを得ず徐々に目を開く。なぜこのようになるのか?眼識の見分・相分・自証分は既に現れているが、どれが証自証分か?その後どのように展開するか?眼識がやむを得ず再び陽光を見ようと徐々に目を開くことは、眼識が陽光の眩しさを知っており、まだ回復しきれていないため目を開けて見ることを望んでいないことを示す。眼識が先ほど陽光を見た時の苦受を知ることが、即ち証自証分である。眼識は苦受があるため太陽を再び見たがらないが、眼識は意根の命令に従わざるを得ず、徐々に目を開くのである。

もちろん太陽を見る過程には意識の証自証分も存在する。眼識の証自証分は意識から離れることはできず、そうでなければ五識は現起しない。意識が自らの感受を了知しなければ証自証分はなく、意識が自らの感受を了別できれば意識は証自証分を具える。眼識が自らの感受を知ることは眼識の証自証分であり、この時意識には必ずしも証自証分があるとは限らない。肝心なのは、眼識の自らの感受を如何に区別し了別するかは、意識に智慧があるかどうかにかかっている。

眼識の苦受には一般に眼識の知と意識の知の両方がある。意識は眼識の不快さを知ることができる。しかし意識の苦受は意識のみが知り得るものであり、眼識は知り得ない。五識と六識の知と覚受も区別がある。例えば痛みを感じる場合、身識が感じる痛みは肉体自体の痛みであり、意識が感じる痛みは内面の一種の苦受である。時に身識は非常に痛みを感じても意識は苦痛を感じず、むしろ快楽を覚える者もいる。頭懸梁・錐刺股(学問に励む故事)はこのような状況であり、自虐狂も同様のケースである。

——生如法師の開示
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