衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年10月07日    日曜日     第5開示 合計889開示

意識の根とは何か、自己とは何か

意根の法に触れて理解することは、どれほどの回り道を省き、自らをどれほどの劫の苦行時間から解放し、どれほどの時劫の苦難を免れさせたか。修行の理路は完全に意根にあり、意根を理解しなければ、成仏の法、成仏の道について心中で明らかにすることはできない。ただ意識のレベルに留まり、いつも意識で魂を弄んでいるだけでは、意識が滅した時、自分は何者なのか?この点を皆はよく思惟すべきである。意根の本来の面目を整え修めることによってこそ、自らを変え、解脱し、業種を転じて清浄にし、ついには成仏できるのである。常に心の中で自問せよ:意識が滅したら、私は何者か?実際、意根が何であるかが、そのまま自分自身の正体なのである。

皇帝が太子を立てようとする時、太子に家を興し国を守ることを期待する。一人の息子は健康であり、もう一人は病弱で生死が不確かである。皇帝はどちらの息子を太子に立てるだろうか?皇帝が正気を失った時にのみ、生死不確かな息子を太子に立て、彼に家を継がせ国を守らせようとするのである。仏法を学ぶ者も同様で、愚かな者ほどあらゆる希望を意識心に託し、意識に悟りの証を得させればよい、意識に明心して如来蔵を知らせればよいと考える。しかし意識が断滅した後、やはり凡夫の一人ではないのか?

またこう言う者もいる:意根は我見を断つ必要がなく、直接我執を断てると。我見を断たずに我執を断てるとは、これも一種の発明創造であるが、肝心なのはこの発明創造が実際に通用するかどうかである。また言う:意根で明心して如来蔵を証得しなくても、直接に識を転じて智とし、直接に成仏できると。これはさらに一種の発明創造であるが、肝心なのはこの発明創造に何の用途があるかである。もしこれらの発明創造がすべて通用するなら、仏法を学ぶことはあまりにも楽で容易になり、近い将来に実現でき、意識心を少しいじるだけでよく、三蔵十二部経を暗唱できれば成仏できることになる。しかし実際には、成仏には三大無量劫をかけてすべての無明を消除し、無明が断じ尽くされるまで続ける必要があり、非常に容易なことではない。

——生如法師の開示
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我見を断じてから如来蔵を参究するのが最も効率的です

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もし意根に無明の煩悩がなかったらどうなるでしょうか

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