意根に怒りがなければ素晴らしく、意識が一旦滅すれば、それは怒りのない不還果の聖者となり、死後に転生する際は不還果の聖者として生まれ変わります。我見を断つ必要も、初禅定を修める必要もなく、凡夫が意識を滅して直接に不還果の聖者となるのです。意根にどのような煩悩もなければ、それもまた素晴らしく、ただ死ぬだけで聖者となり、後世で改めて修行を積む必要もなく、わずかに観行をなせば、たちまち証果を得て、すぐに初禅定を修め、煩悩を断ち切り、再び不還果の聖者となります。意根に無明がさらになければ、それこそ更に良く、直接に仏となり、あなたも私も彼も彼女もここで修行しているのは、全くもって無駄なことです。修行など全く必要なく、意根に無明がなければ、無明を破る必要も、無明を断じ尽くす必要もなく、本来の一尊の仏なのに、何を修行する必要があるでしょうか。
意根に怒りも煩悩もなければ、私たちはただ一眠りするだけで、意識が一旦断滅し、眠っている者は皆聖者となります。生まれたばかりの嬰児の意識と浄色根はどちらも全新しく、意根に怒りも煩悩もなければ、生まれてくる嬰児は皆聖者となり、私たちがこんなに苦労して修行する必要があるでしょうか。意根に怒りがなければ、嬰児は物を得られなくても、かんしゃくを起こして大声で泣き叫ぶこともなく、怒って人を打つこともなく、ママが悪いと言うこともなく、見知らぬ人が抱こうとしても、嬰児は押しのけることもなく、嬰児には不機嫌な時などなく、口をとがらせることもなければ、わがままを言ったり感情を爆発させたりすることもありません。
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