意根の法に触れ、理解することは、どれほどの遠回りを避け、自らを幾劫もの苦行の時間から解放し、無量の時劫の苦難を免れさせたか。修行の理路は完全に意根にあり、意根を理解せねば、成仏の法も成仏の道も、心中に明らかにすることはできない。ただ意識の層に留まり、常に意識で精魂を弄んでいては、意識が滅した時、自分は何者か。この点をよくよく思惟すべきである。意根の本来の面目を整え修めることによってこそ、自らを変革し、解脱を得、業種を転じて清浄と成し、遂に成仏することができる。常に自らに問うがよい:意識が滅した時、我は何者か。実は意根が何であるか、そのままが自己の実相である。
皇帝が太子を立てようとする時、家を興し国を守ることを期待するならば、一人の子は健康であり、もう一人の子は病弱で生死の定まらぬ状況にある。いずれを太子に立てるか。ただ皇帝が昏愚である時のみ、生死未定の子を太子とし、家を継がせ国を守らせようとするのである。仏法を学ぶ者も同様、愚かな者は意識心にすべての希望を託し、意識が果を証すれば足りるとし、意識が心を明らかにして如来蔵を知れば足りるとする。しかし意識が断滅した後、依然として凡夫ではないのか。
またある者は言う:意根は我見を断つ必要なく、直接我執を断てると。我見を断たずして我執を断つとは、これも一つの発明創造であるが、肝心なのはこの発明が実際に通用するかどうかである。また言う:意根が明心して如来蔵を証得せずとも、直接に識を転じて智と成し、直ちに成仏できると。これは更なる発明創造であるが、重要なのはこの発明に何の効用があるかである。もしこれらの発明がすべて通用するなら、仏道修行はあまりに容易で、指を折る間に、意識心を少しいじり、三蔵十二部経を暗誦すれば成仏できることになる。しかし現実には、成仏には三大無量劫を要し、全ての無明を消し去り、無明を断じ尽くすまで続くのであって、極めて容易ならざるものである。
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