如来蔵を参究するには、まず禅定力を十分に修めてから参究するのが最良である。そうすれば五蘊の様々な活動に対して疑念を生じやすくなる。禅定力が不足していると、五蘊の虚妄性を観行し尽くせず、我見が断たれないため、如来蔵の体性をはっきりと思惟できず、疑念が生じにくい。重要な点は、五蘊の虚妄という理が徹底していないと、心の中で五蘊のあらゆる活動を否定できず、五蘊の様々な活動は当然存在すべきもの、自然に有るものだと思い込んでしまうことである。そうなると五蘊の動力源を疑えず、五蘊がどのように現れるかを観行することもできず、五蘊と同時に存在する如来蔵を参究し探求することも不可能になる。小乗の基礎が固く、我見を断っていれば、わざわざ疑念を起こす必要なく、さらに心を一処に制する禅定力があれば、疑念は自然に生じる。その後、如来蔵を参究することは容易になり、悟入しやすくなる。
我見を断つ際には、行住坐臥および言談語笑の中における自己全体の五蘊の虚妄性を観察し、色身の虚妄性および意識心の虚妄性を観察しなければならない。知見上、理論的には身体は我ではなく、意識も我ではなく、我は形も相もないと理解していても、意根はまだ認めていない。意識心は自らの虚妄性を知っていても実際の作用はなく、主導権を握っているのは依然として意根である。身口意行の造作は意根が決定し、意根は真理を知らないため、内心ではやはり意識を我とし、意識の微細な機能作用を真実不滅と認めてしまう。こうなると参禅は非常に手間がかかる。
真に我見を断つには、深く禅定に入り、さらに細心に思惟を重ね、繰り返し意根に熏習させ、意根に五蘊の自己が確かに虚妄であり不実であることを了知させねばならない。因縁が熟した時、意根は意識の機能作用が真実ではなく我ではないと認め、その時内心に大きな転換が起こる。その後、参禅して真心如来蔵を探求すれば、証悟は比較的容易になる。
まず我見を断ってから参禅すれば、参究は比較的楽になる。五蘊が完全に虚妄であると理解した後でなければ疑念は生じず、疑念を抱いて参禅すれば証悟は速やかである。禅定力が不足していると疑念を生じさせられず、慧力が不足しても疑念を生じさせられない。常に自分が努力する方向が正しいか、方法が適切か、六波羅蜜の条件に何が不足しているかを点検し、その後菩薩の六波羅蜜を円満にする方法を考えれば、将来必ず真の大乗菩薩となる。
普段から自分の菩薩としての六波羅蜜の条件がどれだけ具足しているか、まだ何が不足しているかを多く点検し、不足している条件は努力して補い、できる限りこれらの条件を完璧に整えるべきである。さらに自分の心性と願力の状態、心量がどれだけ拡大したか、眼界がどれだけ広がったかを点検しなければならない。私たちが修めるべき内容は実に多く、それぞれの内容を着実に一歩一歩実践によって修めなければならない。そうすれば知らず知らずのうちに層を重ねて進歩し、大乗の真実義を体得した菩薩となる。衆生を悲しみ憐れむことのできる者は必ず真の菩薩であり、真の菩薩は必ず実義菩薩である。したがって菩薩の標識を総括すれば、慈悲喜捨に集約され、これが菩薩の最も根本的な基準である。
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