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日常法話

2018年10月07日    日曜日     第3開示 合計887開示

《父子合集経》選講

原文:かくの如く了知すべし。初識は初識空なり。自業は自業空なり。身識は身識空なり。若し滅せば滅は空なり。若し生ずれば生は空なり。輪廻は輪廻空なり。涅槃は涅槃空なり。皆な自性空にして、造る者もなく、受ける者もなし。ただ世俗に随って、之を顕示するのみ。第一義にあらず。かくの如く説くなり。

釈:このように了知すべきである。最初の識と初識の空を、自ら造作した業行と業行の空を、身識と身識の空を了知し、このように一切の法がもし生ずればその生は空であり、一切の法がもし滅すればその滅も空であることを了知すべきである。同時に輪廻と輪廻の空を了知し、涅槃と涅槃の空を了知すべきである。業行の造作と流転には造る者もなく受ける者もなく、一切の法はただ世俗の分別に随って顕示されるに過ぎない。第一義諦においては、このような説き方はしないのである。

次世の色身に生じる初識も空であり、造作する業行も空である。身識も空である。もしこの法を滅しても、この滅法そのものも空である。真実の滅法があるだろうか。この法が滅する原則があるだろうか。ない、空なのである。次世の識の出生、生じる生法も空である。固定不変の生の法則や原則があるだろうか。ない、空である。一切の法はこのように生じるのである。我々が六道で輪廻し、人となり天となり畜生となり餓鬼となるが、その輪廻も空である。輪廻がもし空でなければ、永遠に輪廻し解脱を得ることも成仏することもできず、修行は無意味となる。我々が輪廻を断ち輪廻から出離できるということは、輪廻が空であることを示している。真実に不滅の輪廻法があるわけではない。我々自身が真実ではないのに、真実の輪廻法があろうか。ない、全てが空であり、全てが幻なのである。

もし涅槃を得れば、三界の世間法を滅し、五蘊が滅し、十八界が滅し、身が滅し、心が滅し、感受が滅し、想念が滅し、身口意の行為造作が滅し、全てが滅する。ただ阿頼耶識のみが残り、生ずることも滅することもなく、清浄寂滅する。この状態を涅槃という。五蘊十八界が皆滅したこの状態そのものも空であり、生滅変異するものであって、永遠に不変なものではない。涅槃の境界も来る所なく去る所なく、涅槃に入る者もなく、涅槃を出る者もなく、造る者も受ける者もない。

ゆえに涅槃は真実の有ではなく、涅槃は寂静状態の顕現に過ぎず、世の騒がしい現象のように実体がなく幻化である。この状態も空であり、ただ阿頼耶識のみが空でなく、その他は全て空である。涅槃には相がなく、空という境界さえも空であり、阿頼耶識を離れてこの空があるのではない。

一切の法には造る者もなく、受ける者もない。四果の阿羅漢を証して涅槃に入っても、四果を証した人もなく、涅槃に入った阿羅漢もいない。寂滅楽を受ける阿羅漢は存在しない。誰が涅槃の寂滅楽を受けるのか。その人を見いだせるだろうか。涅槃には人も阿羅漢もいない。もし存在すれば、それは涅槃ではない。阿羅漢の色身が滅し、識心が滅し、五蘊の作用が滅し、十八界の現象が滅する。したがって涅槃には阿羅漢もなく、寂滅楽を受ける者もいないのである。

——生如法師の開示
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