西洋のある哲学思想では「我思う、故に我あり」と言います。ここでの「我」は、一方では思考する意根の我を指し、他方では思考する意識心の我を指します。私が思考し、了別し、分析し、打算し、判断し、思慮し、了知するなど、この「私」は意識心の私です。この私は常に了知しています。今日私が何をしているか、食事をし、歩き、了別し、本を読み、思惟し、思考し、観行し、参禅し、仏を拝み、仕事をするなど。
このような「私」全体は、様々な因縁によって現れるものであり、必然的に多くの因縁条件の制約を受けます。この「私」は生滅を繰り返す仮の我に過ぎず、真実の私ではありません。この私は第八識が幻化した空ろな殻であり、その表面に現れる機能作用は全て第八識から与えられたものです。もし第八識に識種子がなく、第八識が造作に協力しなければ、これらの分別的な機能作用は全て消滅して存在しなくなります。そうなれば意識は生滅する虚妄の幻影に過ぎず、空なるものであって、私ではありません。
私たちは明確に認識すべきです:今まさに話している私、物事を考えている私、行動している私、これらは全て因縁によって生じたものであり、全て生滅するものです。従ってこれらは私ではないのです。こうして私たちは意識を我とする我見を断ち切ります。世間の全ての哲学者、思想家は、思考する意識を私と見做していますが、これらは全て我見を断ち切れていない凡夫です。たとえ天人であっても、欲界・色界・無色界の三界の天人、最上位の非想非非想天の天人でさえ、同様に意識心を私とし、真実で永遠不滅の我と見做しています。故に彼らは必然的に生死輪回を繰り返し、苦悩から逃れられません。我見を断つことが如何に重要かが分かります。
私たちは今生においてどれほどの代償を払おうとも、必ず我見を断じなければなりません。我見を断てば、生生世世にわたって計り知れない利益を得られます。従って私たちの心は可能な限り世俗法を捨て去るべきです。これらの世俗法は対応するだけで真に受けず、執着せず、ましてや執取してはなりません。心からどれだけ捨てられるかは捨て切り、一切合切を捨て去ることが最善です。その後で仏法に立ち返り、仏法を執取しても構いません。どれほど仏法に執着しても問題ありません。なぜなら生死の問題は既に解決され、仏法はさらに私たちを仏道成就へと導くからです。何故そうしないことがあろうか。
12
+1