問:初禅定は明心見性の前か後に修得するものか。先生の講義では、初禅定は明心後の特定の状態で修得するように見受けられます。しかし外道は明心しておらず、我見も断っていないのに、どうして初禅定を修得できたのですか。
答:初禅定と明心の間には必然的な関連性はありません。明心も証果もなくとも、初禅定を修得することは可能です。外道がその例であり、彼らは無色界の非想非非想処定にまで至り、初禅定をはるかに超える境地を得ています。過去の外道たちは心が清浄で、世俗を離れ深山で修定に励み、世間への貪りが少なかったため、禅定を起こしやすかったのです。加えて当時は社会全体が素朴で、物質や情報も未発達、環境の影響が深刻でなかったため、人心の妄念が極めて少なく、自然と禅定を得やすかったのです。
現代社会の環境条件では、禅定を修めるのは容易ではなく、初禅定はさらに困難です。そのため我見を断って初めて、初禅定を修得しやすくなります。証果明心以前では初禅定の修得は困難ですが、例外や特殊事例が存在する可能性は否定できません。証果直後に得た三昧の状態で、鉄は熱いうちに打つように引き続き精進すれば、初禅定がほどなく現れることがあります。この三昧の段階を過ぎると心に緩みが生じ、禅定は修めにくくなり、初禅は容易に現れません。よって適切な機会と修養の度合いを捉えることが極めて重要かつ鍵となるのです。
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