禅定はまた三三昧とも呼ばれ、第一は有覚有観三昧、第二は有覚無観三昧、第三は無覚無観三昧です。第三の無覚無観三昧は無尋無伺とも呼ばれ、二禅の定境に相当し、五識が滅し、意識が微弱となり、覚知もなく観察力や反観力も失われ、境界の存在も自らの入定状態も認識できません。二禅定においては観の智慧が弱いため無我などの智慧を発起できず、故に二禅では証果を得られません。
第二の有覚無観三昧は初禅から二禅へ至る中間定であり、五識が存在し意識的覚知を有し、自らの入定を認識しますが、観も反観もなく、その覚知の智慧は強からず弱からずです。この定には観が欠如しているため、我見を断じて証果するのは極めて困難です。初禅の定境においてのみ有覚有観が具わり、一心に専念して観察力が強く、容易に我見を断じて証果できます。三三昧に至る前の未到地定においても、禅定力が強く一心不乱であれば、同様に我見を断じて証果可能です。
定と観行を修して伺いの状態に至ることは参禅の功夫であり、この修行を成就すれば生生世世にわたり無限の利益を得ます。あらゆる法の証得は悉く伺いの状態において成就されるためです。より浅い定には解の要素が含まれ、智慧も未だ真実確固たるものとは言えません。
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