五蘊十八界の働きは、すべて如来蔵が送り出す七大の種子の機能作用である。七大の種子が六根六塵において作用し、地水火風空が色身において作用し、識種子が識心において作用することは、すべて五蘊の働きに現れている。識種子・四大種子・空大種子が見大種子と共に作用する時、五蘊は生じる。如来蔵が種子を送り出すことによって種子の機能作用が形成され、種子の機能作用すなわち如来蔵の機能作用であるが、如来蔵とはまた異なっており、両者は一ならず異ならぬ関係である。如来蔵自体が有する種子が一切の法を幻化し、種子と一切の法は如来蔵に属する。如来蔵は収めることも放つこともできるゆえに、一切の法は如来蔵のものである。
しかし如来蔵には七識の心行はなく、完全に無我性であり、いかなる法にも執着せず、心は本来清浄である。ところが末那識は、如来蔵が幻化した一切の法をすべて「我」「我のもの」「我が所有するもの」として執着し、六識の機能作用を「我」および「我のもの」として執着する。それらがすべて如来蔵によって生じ、如来蔵に帰属することを知らない。末那識は如来蔵が幻化した法に執着しながらも、如来蔵の存在と幻化作用を知らない。如来蔵は業種と業縁に依って五蘊十八界を生じさせる。一つの法として如来蔵の働きによって現れていないものはない。しかし末那識はそれらがすべて自己の所有に属すると考えて貪着を生じ、その貪執性によって三界に覆われ縛られ、出離解脱することができない。覆われ縛られるのは末那識であって六識ではない。なぜなら末那識が万法を捉えて放さないからである。
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