衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年03月16日    金曜日     第3開示 合計213開示

禅定と仏法実証

例えば、観行における意根の法について言えば、禅定だけでなく智慧も必要である。禅定がなければ、たとえ意根の法をすべて教えられても、観行することはできない。禅定を得て、一定の智慧も備わった時に初めて、意根の法を教わり、文字に従って観行を進めることで、速やかに意根を証得できるようになる。意根を証得した後は、意根の微弱ながらも本質的な特性までも観察できるようになり、その智慧は非常に優れたものとなる。禅定が不足している場合、たとえ意根の働きに関する様々な法を教えられても無意味である。なぜなら、意根を証得できなければ意根を観察できず、意根の本質を真に理解することはできず、智慧は実質的な進歩を遂げられないからである。状況が変われば、意根がどのように作用するのか再びわからなくなってしまう。

したがって、智慧の増強、菩薩道の修証、様々な段階の観行は、いずれも必要十分な定力なくしては成し得ない。定力を離れて、観行の智慧や真実の智慧を得ようとするのは不可能である。仏が我々に説かれた「戒・定・慧」という三つの無漏の学びにおいて、戒を捨てたり定を捨てたりして、智慧のみを追い求め、狂ったような智慧(乾慧狂慧)だけを得ようとするのは、ちょうど絵に描いた餅で飢えを凌ごうとするようなものに等しい。ある人々は、仏法の知識や大道理を多く理解しているように見え、智慧があるように見え、流暢に語ることもできるが、語られる内容は空虚な理論に過ぎず、その理を実現し、事を理に一致させるための具体的な実践方法を説明できない。全てが大雑把な道理の上での言葉の説明に終始し、非常に具体的さに欠け、粗雑である。これは自らが実証を伴っていない証左であり、具体的な修証の方法を語ることができない。特に、流暢に語ることができても、心の在り方(心行)は変わらず、語る内容と一致せず、心性におけるいかなる解脱の功徳も受用できていないのである。

もし我々が精進して禅定を修めず、定力が不足しているならば、ますます深遠な法、ますます微細な法を理解することはできず、観行など論外であり、修行は次第に遅れを取り、脱落してしまうだろう。そうなると信心を失い、他の浅はかな教えに転向してしまう。そしてそれらの浅はかな教えには多くの誤りや欠点があるが、自分自身で見分ける能力がなく、一生学んでも仏法を証得できず、自らの貴重な時間を無駄に浪費してしまうことになる。

心身の大いなる解脱のため、仏法を実証するため、一日も早く仏道を成就するためには、我々は必ず禅定を重視しなければならない。禅定がなければ、肝要で重要な法に出会っても理解し消化できず、証得することはできず、殊勝な仏法を受用できず、それに依って解脱を得ることはできない。したがって、皆さんに強く勧めたい。できるだけ時間を有効に使い、現状の条件を最大限に活用し、さらには条件を創り出してでも禅定を修めるべきである。歩く・立つ・座る・臥すといった動きの中での禅定(動中定)、坐禅による静寂の中での禅定(静中定)、いずれも修め、自らの心がいつでも静まれるように修練し、さらに微細なレベルまで修めるべきである。そうして初めて、学んだ法を観行しやすくなり、証得した後は智慧が発起し、知識が自らの実証体験へと転化され、真実の受用を得られる。このように修行すれば、定も慧も絶えず増進し円満し、修行は非常に速やかに進み、努力が無駄になることはなく(功不唐捐)、仏道における最大の成就を得ることができるのである。

——生如法師の開示
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意根の三界一切法に対する貪執

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