再び例を挙げますと、観行における意根の法は、禅定だけでなく智慧も必要です。禅定がなければ、たとえ意根の法をすべて教えられても、観行することはできません。禅定を得て一定の智慧が備わった時、改めて意根の法を教わり、文字に従って観行を実践すれば、速やかに意根を証得できます。意根を証得した後は、意根の微細な本質までも観察できるようになり、その智慧はまことに非凡なものとなります。もし禅定が不足しているならば、意根の働きに関する様々な法を教えられても無意味です。意根を証得できなければ観察もできず、意根の本質を真に理解することは叶わず、智慧も実質的な向上を見せません。状況が変われば、再び意根が如何に作用するか分からなくなってしまうのです。
したがって、智慧の増強、菩薩道の修証、各段階の観行は、いずれも十分な定力なくしては成し得ません。定力を離れて観行の智慧、真実の智慧を得ようとするのは不可能です。仏が説かれた「戒・定・慧」の三無漏学において、戒を捨て定を棄て、乾いた狂慧のみを求めることは、絵に描いた餅に等しい行為です。仏法の知識や大道理を多く理解しているように見え、智慧があると思われ、流暢に語ることのできる人々がいます。しかし彼らの語る内容は空虚な理論に過ぎず、その理を如何に実践すべきか、事象を理に適わせる具体的な方法を示せません。全てが曖昧な理屈の上での言葉の羅列であり、極めて不具体で粗雑です。これは自らが実証を伴わず、具体的な修証の方法を語れない証左です。特に流暢に語りながらも心の在り方は変わらず、語る内容と一致せず、心性における解脱の功徳を何一つ受用していないのです。
もし精進して禅定を修めず、定力に欠けるならば、次第に深遠な法、微細な法は理解不能となり、観行など到底及びません。修行は次第に遅れを取り、脱落してしまうでしょう。そして信心を失い、他の浅はかな法を学び始めます。そうした浅い法には誤りや欠落が多く、自ら見分ける能力もないため、一生学んでも仏法を証得できず、貴重な時間を空費してしまうのです。
心身の大いなる解脱、仏法の実証、一日も早い仏道成就のため、私たちは必ず禅定を重視しなければなりません。禅定がなければ、肝要な重要な法に出会っても理解も消化もできず、証得は叶いません。殊勝な仏法を受用できなければ、それに依って解脱することはかないません。どうか皆様、時間を大切にし、現状の条件を最大限に活用し、さらには自ら禅定を修める機会を作り出してください。歩く・座る・寝るといった動中の禅定、座禅の静中の禅定、いずれも修め、自らの心を常に静め得るよう、さらに微細に鍛錬すべきです。こうして学んだ法を観行すれば容易に証得でき、その後智慧が発起します。知識は自らの実証体験へと転化し、真実の受用を得られるでしょう。このように修行すれば、定も慧も絶えず増進し円満に至り、修行は極めて迅速に進み、努力は無駄になりません。仏道における最大の成就を得ることができるのです。
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