もし、耳識が先に音を聞くのか、意識が先に音を聞くのか、耳識が聞く音はどのようなものかを観行しようとするならば、必ず禅定を修めなければならない。動中の定も静中の定も共に修め、定力が十分に備わって初めて観行が可能となる。先に観行し、その後で禅定を修めるという順序ではない。それは修行の順序が逆転している。たとえ成就したとしても、それは最初の散乱した観行を通じて次第に心を一処に止め、定力を具足した後で、真の理法にかなった観行を開始するのであり、やはり先に定、後に観という順序である。これを止観と呼び、観止ではない。
座禅による禅定(静中の定)がなければ、ごく微弱な動中の定のみでは大した作用もない。座禅という静中の定は動中の定を養い、我々の思惟を非常に深く、微細にすることができる。音を聞く時の耳識と意識の活動を観察し体得しようとするならば、禅定の中で観察することができる。外界に音が生じれば、観行によって音が鼓膜に与える振動がどのようなものか、耳識が聞く動静がどのようなものかを、一つひとつ分別して観察するのである。しかし定力がなければ、決して観察することはできない。しかも求められる定力は一般的なものでは不十分で、比較的深く専一なものでなければ観察できない。大きな音も、微かな音も、まず耳識と意識がそれぞれ何を聞いているかを観察し、耳識が聞く音声が鼓膜や耳根にどのような影響を与えるかを観察し、その後で意識が聞く音、感じる音がどのような状態であるかを観察する。もしそれらを一つひとつ了別できれば、耳識が先に生じるのか意識が先に生じるのかを明確に区別でき、二つの識がそれぞれどのような塵境を分別しているかが分かる。これらの観行には全て、定と慧の現行がある。どちらか一方が欠けても観行は成就しない。したがって仏法を修学するとは、即ち定と慧を等しく修め、止観を両立させることなのである。
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