衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年03月16日    金曜日     第1開示 合計211開示

定力が欠けては仏法を実証できない

私たち修行者は、仏法を実証しようとするなら、定力(じょうりき)が極めて重要であり、仏法の実証の一歩一歩はすべて定力によって観行(vipaśyanā-caryā)してはじめて、諸法の実相を明らかにすることができます。例えば、眼識が先に生まれるのか、意識が先に生まれるのか、顕色が先なのか形色が先なのかを観行するには、必ず先に定力があってこそ観行によって得ることができます。さもなければ、心が散乱していて、正しい結果を観行することは決してできません。私たちは外の景色を見ることができ、空を見たり、木を見たり、草花や樹林を見たり、川を見たりすることができます。眼識が外に放たれたとき、まず眼の対する外境を見て、顕色が先に見えるのか、形色が先に見えるのか、あるいはこれらの色の中の内涵(内包する内容)が先に見えるのか、このように一歩一歩、定力があってこそ観行できるのです。もし定力がなく、脳による想像だけに頼るなら、絶対にはっきりと思い描くことはできず、仏法を実証することもできません。

仏法の実証は、定力を離れたら実証とは呼べません。それはすべて想像、思惟、情思意解にすぎません。情思意解に頼っていては、私たちは真の智慧を得ることはできず、すでにあった智慧も向上することはなく、外から学んだわずかな智慧だけで、智慧の増長は非常に遅いものとなります。定力がなければ、たとえ無理に明心して、第八識がどこにあるのかという答えを知ったとしても、観行ができず、智慧も増長することはできず、観行智も現れることはありません。

定力を離れると、明心の後の十住位の如幻観は現起せず、身心の特殊な覚受も現れず、身心にはいかなる変化も生じません。もし身心の感受に変化がなければ、如幻観を証得したことにはなりません。定力を離れると、十行位の陽炎観(陽焔観)も観行できず、陽炎観のそれらの身心の覚受もなく、十行位を越えることは不可能です。さらに十回向位の如夢観も、定力が欠けていれば、如夢観の感受は現起しません。これらの観行において、一観一観とすべて通過できないなら、菩薩の道業はその場で足踏みし、増進することができません。定を離れて仏法を実証しようとすることは、それは夢物語です。定力があれば、断我見(ahaṃkāra-mamakāra-parityāga)と明心のときの、あの身心の覚受と禅悦は言葉では言い表せないほどであり、その後の智慧の増長、定慧の増長、菩薩の果位の増長もすべて非常に速いのです。

——生如法師の開示
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小乗四聖諦法における内法塵と外法塵

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定力具足してこそ観行 (vipaśyanā-caryā) がよく行える

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