我々修行者は、仏法を実証しようとするなら、定力は極めて重要である。仏法実証の各段階は全て定力によって観行に頼り、その後で初めて諸法実相を明らかにできる。例えば、眼識が先に生じるのか意識が先に生じるのか、顕色が先か形色が先かを観行する場合でも、必ず先に定力がなければ観行して得ることはできない。そうでなければ心が散乱し、正しい結果を観行することは到底できない。我々は外の景色を見ることができ、空や木、草花や森、川を見ることができる。眼識が外に向かうとき、まず眼が向ける外境を見て、顕色が先に見えるのか形色が先に見えるのか、あるいはこれらの色の中の内包が先に見えるのか、このように一歩一歩、定力があって初めて観行できるのである。定力がなく脳の想像だけに頼るなら、絶対に明確に考えることはできず、仏法を実証することもできない。
仏法の実証は、定力を離れては実証とは呼べず、それは全て想像、思惟、感情的な思考や理解に過ぎない。感情的な思考や理解に頼っては、真の智慧を持つことはできず、元々あった智慧も向上せず、外から学んだわずかな智慧だけでは、智慧の成長は非常に遅い。定力がなければ、たとえ無理に明心し、第八識がどこにあるかという答えを知ったとしても、観行することができず、智慧も成長せず、観行智も現れない。
定力を離れると、明心後の十住位の如幻観は現れず、身心の特殊な覚受も現れず、身心に何の変化も起こらない。もし身心の感受に変化がなければ、如幻観を証得したことにはならない。定力を離れると、十行位の陽焔観も観ることができず、陽焔観の身心覚受もなく、十行位を越えることは不可能である。さらに十回向位の如夢観も、定力が不足すれば如夢観の感受も現れない。これらの観行が一つ一つ乗り越えられなければ、菩薩の道業はその場で足踏みし、進展することはない。定を離れて仏法を実証しようとするのは、全くの夢物語である。定力があれば、我見を断ち明心する際の身心の覚受や禅悦は言葉では表現できないほどであり、その後の智慧の成長、定慧の成長、菩薩果位の成長も非常に速い。
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