衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年03月22日    木曜日     第3開示 合計240開示

観行および証得による無我性の覚受の重要性

あらゆる衆生は感覚的体験を真実のものと見なし、自我と見なし、自己の所有物と見なしている。そして感覚的体験を追い求め、これを満足させ従順に従い、自らの感覚的体験のためにあらゆる業行を造作することを惜しまず、特に悪業行を造作しようとする。

私たちが生死の苦しみを解除しようとするならば、感覚的体験の虚妄性・不実性・幻化性・空性・非我性を観行しなければならない。そうすれば感覚的体験が確かに空幻で不実であることを証得でき、もはや感覚的体験を重視せず、追い求めることもなくなる。これにより一つには我見が断たれ、二つには心が次第に清浄となり、貪・瞋・痴の煩悩が徐々に薄らいでいく。感覚的体験を追い求めなければ、貪・瞋・痴の煩悩といった無明の悪業を造作することはない。

感覚的体験はどうして空であり幻化なのか?感覚的体験はどこから来るのか?感覚的体験は主に六識の感覚的体験である。実はその後ろにある意根の感覚的体験も非常に重要であり、意根に感覚的体験がなければ、六識に貪染の業を造作させることもなければ、解脱を求めることも、精進して仏法を修学することも不可能である。六識の感覚的体験は一方で意根から来ており、意根の影響と指揮を受けている。他方で、六識自体が六塵の境界を了別する際に、境界の影響を受け、境界に対して貪厭を起こす。受心所法が現れると、苦楽の感受が生じる。

六識の感覚的体験はどのように出現するのか?如来蔵が識の種子を出力して六つの識を形成し、六つの識が生成されると運行を開始する。五遍行心所法および五別境心所法が現れ、それによって六塵を分別し、六塵を執取し、境界に対して感覚的体験が生じる。その後、この感覚的体験を真実と認め、自我と認める。自分に順うものには貪り、逆らうものには怒りを抱き、貪・瞋・痴といった無明の業を造作しようとする。その後、生死輪廻の果報が絶え間なく続く。それゆえ私たちが感覚的体験を空と観じれば、貪りと怒りの心を降伏させることができる。この事柄は非常に重要であり、五蘊が無我であること、感覚的体験もまた非我であることを証得することが最も重要である。

——生如法師の開示
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