衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2021年06月26日    土曜日     第2 回の開示 合計3462回の開示

我見の在り処を如何に観察すべきか

自己の我見の落とし所を探るには、自らの貪求を観察すればよい。求め過ぎることは貪りであり、不合理な要求は貪りであり、求めるべきでないものを求めることも貪りである。なぜかくも多くの求があるのか。心中に我があるからこそ、色身を我と見なし、受陰を我と見なし、想陰を我と見なし、行陰を我と見なし、五蘊のために貪求するのである。もし心中に我がなければ、少欲知足となり、適度で止まることを知り、過剰に探し求めたりすることはなく、ましてや不如法の手段や不合理な方法、さらには他人を損なう方法で自らの利益を求めることはない。

心中に我なき者は、心思を費やして求めることなく、縁に随って生き、ましてや手段を選ばず求めることはない。我なき者は何事を行うにも他人の立場に立って問題を処理し、他人の利益を考慮し、他人の心情を顧みる。しかしこのような配慮は必ずしも他人の無理な要求に従うことではなく、他人の長期的かつ究極の利益を出発点としており、その用心と行為は必ずしも他人の理解や同意を得られるものではない。

心中に我ある者、我見の強い者は、我執も必然的に強く、人との付き合いや事の処理はすべて自心を出発点とし、自我を重んじ、自己の観点や見解を基準とし、他人の意見や見解を求めず、他人の心情を考慮せず、往々にして自分の習性に従って事を成してから後で報告し、他人の利益を侵害しているか否かを顧みない。もし他人が自分に従わなければ、逆上して報復手段を取り、自己の利益を取り戻し、心中の怨みを鎮めようとし、結果を顧みない。このようにして、自他との争いの中で、自らが勝利するたびに、無我の修証の道において一歩後退し、生死の苦しみの穴へと一歩進み、今生と来世の苦難が一段と重くなるのである。

善く観察することは修行の中で非常に重要な一環である。善く観察すれば、あらゆる事柄における真の利害得失を秤にかけることができ、長期的利益は常に眼前の利益よりも重要であり、長期にわたる効果は短期の効果をはるかに上回る。我見の強い者は目先しか見えず、往々にして眼前のわずかな点しか見えず、眼前の極小の利益に目を曇らされる。これがいわゆる業障である。

業障とは何か。過去世の無明の業因が、自らの我見・我執を増長させ、智慧の生発を妨げ、事の真相を見極められず、何が自らの真の利益であるかを知らず、無益なことを極大の利益として求め、結果は願いとは逆方向に向かい、得るものより失うものの方が大きくなるのである。

衆生は皆、無明という用語は比較的婉曲であり、愚痴という用語は粗野であると感じているが、実際には両方の言葉は同じ意味であり、仏陀はまさに愚痴という言葉をもって衆生の心性を概括しているのであり、これはすでに非常に婉曲な表現である。仏陀が時に弟子たちに向かって「咄!痴人!」と一喝することもある。実際、どのような言葉を用いても、衆生の痴と愚を余すところなく表現することはできず、何を言っても十分ではなく、何を言っても衆生は無反応であるため、ただ言葉を失うしかない。たとえ須弥山を梃子として用いても、衆生の心中の痴・愚・鈍を動かすことはできないのである。

——生如法師の開示
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