衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常開示

2021年06月26日    土曜日     第1 回の開示 合計3461回の開示

意識と意根の智慧の消長

学生が学習する段階では、知識理論を吸収する段階であるため、意識を多く用います。学習が終わると実践段階に入り、この段階では理論を実際の操作に応用し、個人の真の才覚が発揮されるため、この時は意根が多く用いられます。もし意根をうまく活用できなければ、人から「本の虫」や「学者バカ」と嘲笑され、学問はあっても才能がなく、真の実力がなく、学んだことが役に立たないと見なされます。

学生が幾何学の問題を解く際、明らかに意識を用いて推論しています。なぜなら結果や答えがあるからです。答えに向かって推論を進めればよいのです。集中力の優れた学生は、わずかに意根の思量作用を用いることもありますが、多くはありません。もし問題に答えがなければ、意根の思量を用いることが多くなり、正しい結論を導き出せれば、学生の一定の真の知恵が示されるかもしれませんが、意識による推論の要素が多くなる可能性も排除できません。幾何学の問題を推論する過程では、一定の原則や法則に従うことができ、それに依存すればするほど意識の作用が大きくなり、意根の作用は小さくなり、知恵は浅くなります。

同様に、観行参究の過程では、他人からのヒントが多ければ多いほど、意識が多く用いられ、意根は少なく用いられ、知恵は浅くなります。もし完全に他人のヒントに頼り、口で言われたことを耳で聞くような方法であれば、すべて意識の作用であり、意根はまったく力を発揮していないため、意根には一点の知恵もなく、現世でも来世でも解脱の功徳を享受できません。一方、何のヒントもない前提で、完全に自力で参究して得たものは、最も優れており、知恵が最も深いのです。逆に、他人からの助けが大きければ大きいほど、自身の能力は小さくなり、何の助けもなく問題を解決すれば、すべての知恵は自分自身のものとなります。独覚仏が一人で山にこもり十二因縁を参究し、法を証得する前後の知恵は、阿羅漢では比べものにならず、凡夫は言うまでもありません。阿羅漢には仏陀や仏法に頼ることができますが、開発される知恵には限界があり、独覚仏の深く細やかな知恵には及びません。

外的な縁に頼れば頼るほど、意根は少なく用いられ、能力や知恵は劣ります。ある人々は仏法を学ぶ際、いつも様々な助けを得ようと願いますが、得る助けが大きければ大きいほど、開発される知恵は少なくなり、享受できるものも小さくなることを知りません。問題に遭遇した時に自力で努力し、頭を働かせて得たものこそが、最大の知恵なのです。いつも法を尋ねることを好む人は、知恵が比較的浅く、自力が足りず、独立して問題を解決する能力がありません。ある人々はいつも人に悟りを助けてもらおうと願いますが、助けられて悟ったものは、結局誰の悟りなのでしょうか?誰の知恵なのでしょうか?仏法上の知恵も、世俗法上の知恵も、すべては自力で得た者が得るのであり、人に頼るより自分に頼る方がよいのです。

——生如法師の開示
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