衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年03月24日    土曜日     第1開示 合計245開示

意根は禅定に相応するか

智慧は単に意識の慧のみを指すのではなく、意根の智慧も含まれる。意識の慧によって意根の慧が引き出され、最終的に意根に定着して種子として蓄積される。後世において縁に遇えば種子が萌え出で、再び大智慧を生じることができる。禅定がなければ、意識のみが単独で智慧を持ち、意根は智慧を持つことができない。なぜなら意根は攀縁が多く、精力を集中して思量し参究することができないため、法を証することができず、大小乗の無我を知ることができず、智慧を生じることができないからである。

意根に智慧がなければ、我見・疑見・戒禁取見を断除することができず、後の生死の結縛も断除できず、六識の修行を正しく理に適った形で指導することもできない。意識がどれほど智慧を持っていても、大した役には立たない。意識が如来蔵を真実であると認め、一切の法は幻化であり、五蘊は無我であると理解しても、意根が理解しなければ無明を破ることはできない。無始無明が依然として存在すれば、依然として六識を引き連れて無明の業を造作し、貪瞋痴の煩悩を薄くすることも、ましてや降伏・断除することもできず、心解脱と慧解脱を得ることができず、一念無明と塵沙無明(じんしゃむみょう)を断尽することができない。三界を出離することもできず、究竟して仏となることもできない。

解脱は主に、意根が三界の法に対する生死の係縛、および一切の法への執着と係縛から解放されることを指す。意識と意根の小乗における慧が満たされれば、それが慧解脱の四果阿羅漢である。意識と意根の大乗における慧が次第に具足円満すれば、識を転じて智とし、究竟して仏となることができる。したがって、この慧は最終的に意根に定着しなければならない。

大智慧が意識のみならず意根にも現れる以上、識を転じて智とするには意識の転識成智もあれば、より重要なのは意根の転識成智である。では、禅定はどの識を定めるのか、どの識と相応するのか。意識と意根の両方が禅定を持ち、両方が禅定と相応する。まず、意根が法を意識に託して思惟させる。意識は最初は散乱しているが、次第に定が生じる。その思惟観行が意根の関心を引き、注意力が次第に意識の思惟内容に集中していく。これによって初步的な定が生じる。意識も次第に思惟観行に専念できるようになり、意根の注意力が強まるにつれて禅定は深まり、意識はますます専念し、思惟はますます細密になる。意根はこれに依って深く細かい思惟を行い、理を明らかにして法を証することができる。これは観行によって禅定を引き起こし、さらに観行力を強める方法である。

一方、意識が定を修めることで、意根の攀縁を減らし、意念を集中させる。その後、意根が法義を思惟しようと決心すれば、意識は注意力を集中して一つの法義を思惟・観行する。意識の観行内容は刹那刹那に意根に伝わり、意根は伝えられた情報に対して勝解を持つかもしれないし、持たないかもしれない。それゆえ、智慧が生じるかもしれないし、生じないかもしれない。智慧が生じるかどうかは、三十七道品が具足しているか、戒定慧の修行の状況、煩悩が降伏されているか、心性が調柔であるかなど、多くの要因による。

もし専一に思惟し、深く細密に観行できるならば、それは意識と意根の両方の注意力が集中できることを示し、両方に一定の定力があることを意味する。六識に禅定が現れるとき、意根には必ず定がある。もし意根に定がなければ、六識の禅定は現れ得ない。なぜなら六識が念を持つか無念であるかは意根によって決定され、意根が至る所に攀縁し、六塵の境界をすべて了別しようとし、一つの境界だけを了別しようとしなければ、六識が無念となることや一つの境界に専念することは不可能だからである。

六識が仏法を熏修し、もし意根にまで熏修が及び、意根に影響を与え導くことができれば、意根もまた定を持つことになる。意根の定とは、まず意根が法に定まり、五蘊無我という法に定まって精進修学し、三十七道品に定まり、あるいは菩薩の六度に定まることを指す。意根が精進し始めて初めて、六識は精進できる。意根が懈怠すれば、六識は精進できない。もし意根が三十七道品を具足すれば、六識は必然的に具足する。意根は六識を監督し掌握する指揮官であり、六識は必然的に意根の指揮と調遣を受ける。したがって修道の要はすべて意根にある。

意根が作意して法に定まった後、六識は法に定まって散乱しなくなる。その後、法の上で六識は作意観行できるようになる。意根がどこに定まるかによって、六識もそこに定まる。なぜなら六識は意根に従って転じ、意根の指揮棒は刹那刹那に六識を指揮するからである。もし意根が定まらなければ、指揮棒を至る所で乱れ指揮する。六識は定まることができるだろうか。全く定まらない。意根が精進して仏法を修行しなければ、六識は精進できない。したがって定とはまず意根の定、意根と相応する定を指すのである。

意根が仏法に定まって修行し、常に五蘊の虚妄を観行しようと念じていれば、六識は観行できる。もし意根が参禅したいと思い、如来蔵という法が重要であると考え、証得したいと願えば、意根は六識を督励して参禅させ、六識は参禅という法に定まり、大乗の法を精進修行できるようになる。したがって意根が定まらなければ、六識には定がない。専ら座禅によって修める四禅八定において、定は主に誰の定を指すのか。もちろんこれも意根の定である。もし意根が降伏しておらず、意根が座禅に定まらず、依然として法に縁し、他の法を攀縁し思い焦がれ、雑念妄想があれば、六識が座禅して定を修め、心念を滅することは不可能である。

したがって四禅八定の定であれ、法に定まる定であれ、法に専念する集中力は、主に意根を指す。その後で六識が定まり、心を休め、覚観を滅除し、さらには識心すら滅することができる。意根が動いて初めて六識は動く。意根が指し示す方向に、六識は必ず向かう。六識を降伏させたいならば、必ず意根を降伏させなければならない。五蘊を降伏させるにも、まず意根を降伏させなければならない。

成仏も主に意根を熏習して成就させ、意根に一切の法を証得させ、一切の法を了知させ、無始無明と塵沙無明惑を滅尽させ、意根に戒定慧を具足円満させることである。そうすれば衆生は必然的に仏となる。この衆生とは誰を指すのか。すなわち意根を指す。ゆえに維摩経には「衆生の心行を、如来蔵は衆生の心行を了知する」とあるが、主に意根の心行を了知するのである。衆生とはすなわち意根であり、意根とはすなわち衆生である。意根が五蘊を我と見なすならば、意根の我見を断除しなければならない。

——生如法師の開示
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