衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2018年03月24日    土曜日     第2開示 合計246開示

一切法は意根遍縁の結果なり

仏は意根が一切の法を黙して容れると説かれた。黙して容れるとは遍く縁ることに等しい。最も重要なのは、第八識は単独で法を変現できず、単独で法を執持できないことであり、必ず意根がなければならない。そうでなければ無余涅槃においても第八識が法を変現し、法を執持することになり、それでは寂静ではない。意根は三界の法が現起する根本的な動力であり、いかなる法の現起も意根の推動によるもので、第八識が単独で運作することは不可能である。これは一切の法には第八識の運作のみならず意根の運作もあり、したがって意根は一切の法に縁ることができ、一切の法に意根が欠けることはないことを示している。

たとえ意根が受け入れたくない果報であれ、攀縁したくない業種であれ、それらは意根が縁となることで、第八識が業種を現行させるのである。もしそうでなければ、阿羅漢にまだ業種が残っている場合、無余涅槃において第八識は業種を現行させるはずである。もし現行させることができるなら、それは無余涅槃の境界ではなくなり、第八識が有為の業を造作することになる。

意識には単独のいかなる機能作用もなく、すべて意根と結びついており、また意根の協力による結果である。意識は意根から離れて単独で運作することはできない。したがって意根の作用は非常に顕著かつ重要であると言える。

人の意識が発動する過程は、まず意根が念を動かし、作意の後に思心所が現れ、それから意識が念や考えを生じる。念を動かすのは必ず意根が先であり、その後で意識の念が現れる。意根の念がなければ、意識の念もない。公案に参究する際、最終的には意根を公案につなぎとめ、朝に夕に念念不忘することで初めて参究を突破できるが、これも意根が念を動かす結果である。意根が念を起こすこと、すなわち作意である。念を動かすことも作意であり、言葉が異なるだけである。

実のところ、六識と第八識は常に二人羽織のような関係にあり、それゆえ六識の身口意の行いにおいて第八識の跡を発見できる。同様に意根と第八識も二人羽織のような関係にあり、意根の運作において第八識の跡を見出し、意根の作意・触・受・想・思において第八識の跡を見出し、意根のすべての選択や主宰する機能作用において第八識の跡を見出すことができる。したがって意根において悟りを開くことは、より深くより直接的に、より徹底的により究極的であり、このようにして発起する智慧は最も深遠なのである。

——生如法師の開示
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