四念処の観行の結果は我見を断ち、解脱の果を得て、煩悩を断じて解脱することである。誰もが煩悩と我見を有する凡夫である以上、我見を断つ必要があり、そのためには四念処観の呼吸観察から始めなければならない。凡夫は全て我執を抱え、あらゆる心の働きと煩悩を有しているため、無我無煩悩の修行が必要なのである。修行は基礎から少しずつ始めるべきで、呼吸観察を端緒として浅きより深きに入り、漸く無我を証得し、心を空しくして煩悩なき境地に至るのである。
凡夫にとって、いかなる「空」であれ、少しでも空じることができれば大いに結構なことであり、可能な限り空じ捨てるべきである。頑空や断滅空を恐れる必要はない。凡夫はそもそも頑空や断滅空に至れない故に、ひたすら空じ、空ずれば空ずるほど良い。従来の全ての知見を忘却し、心を空っぽにし、赤ん坊の如く新たに学び直すべきである。かつての知見は葛藤の縄の如く心に横たわり、上にも下にも通じず、鬱積して苦痛を与える。今こそそれらを空じ去り、心を清浄に保ち、改めて清浄なる法を満たすべきである。従来消化し得なかった教えは病と化すことがある。空じ得れば病は癒えるが、空じ得ぬなら病を抱えたまま、自ら治療の手立てを講じるしかない。他者は助言を授けるのみで、治療の主体はあくまで自己である。
理論に触れれば触れるほど、消化が困難になり、心に滞積して薬が病と化す。消化吸収の能力が不十分ならば、深遠な理論を整理し、消化しやすい法義を実践的に修練すべきである。消化不能な理論は如何に優れていても一時的に脇に置き、基礎的な法義から修行を始めるべきで、高遠を望んで足元を疎かにしてはならない。
5
+1