衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2021年06月23日    水曜日     第2開示 合計3457開示

如来蔵の証得は悟りなり、転依何須くんぞ

見道は、大乗と小乗の見道に分かれ、大乗だけが見道と呼ばれるわけではありません。大乗の見道は如来蔵を実証することであり、如来蔵を証得することは大乗の修行が依りどころとする道跡(どうせき)を見たことになります。如来蔵を証得した後に改めて転依(てんね)が成功して初めて証悟(しょうご)となるのではなく、如来蔵を見たその瞬間が証なのです。転依については、悟った後には確かに少しずつ転依が必要であり、転依が成功するとその心性は如来蔵の清浄性に近づき、煩悩を断除し、智慧の面では唯識種智(ゆいしきしゅち)を具えるようになります。そうすることで如来の家に入り、真の仏子となります。 

もし転依が成功して初めて明心(みょうしん)の証悟だとするならば、如来蔵を証悟することは証悟ではないことになります。証悟でないならば、如来蔵を証得したわけではなく、理解の上で如来蔵があると解しただけです。解されただけの如来蔵には功徳の享受(きょうじゅ)がありません。そこで初めて、身・口・意の三業(ごう)において如来蔵の清浄性と照らし合わせ、七つの識(しき)の身・口・意の行いを律する必要が生じます。ある程度まで律することができ、煩悩によって再び悪業を造ることがなくなれば、証悟したとみなされます。しかし、このような律しは、真に証悟していなければ成功することは不可能であり、したがって転依も永遠に成功しません。証悟していないのに、どうして転依が成功するでしょうか。証悟した後であれば、なぜ改めて転依を成功させる必要があり、さらにそれを証悟として確立する必要があるでしょうか。これは矛盾しているとは思いませんか? 

証悟した後、初めて徐々に如来蔵の空性(くうしょう)と清浄性に転依することができ、最終的に初禅(しょぜん)が発起し、煩悩が断除された時が、最も初歩的な転依です。二度目の転依の成功は八地菩薩(はちじぼさつ)の位においてであり、究竟(くきょう)の転依の成功は仏地(ぶっち)においてです。凡夫(ぼんぷ)は証悟していないため転依の問題には関わりがなく、ましてや転依が成功することなど、そのようなことはありません。転依を成功させるためには、少なくとも煩悩を断除し、心性と智慧の両方が如来蔵に近づき、如来蔵に寄り添う必要があります。如来蔵には微塵(みじん)の無明(むみょう)も煩悩もなく、煩悩の習気(じっけ)も存在しません。第六識と第七識は如来蔵に依りどころを求め、身・口・意の行いと智慧を清浄にし、戒・定・慧(かい・じょう・え)を勤修(ごんしゅ)しなければなりません。 

最初の転依が成功するには、少なくとも煩悩を断除し、三果・四果の菩薩となって、ようやく転依成功と言えるでしょう。しかしこの時点では煩悩の習気はまだ残っており、如来蔵とは依然として程遠い状態です。おおよそさらに二つの無量劫(むりょうこう)の修行を経て、大乗の無学(むがく)に達すれば、もはや如来蔵の心性と智慧に転依する必要はなくなります。明らかに、転依は凡夫で未証悟の者がなし得ることではなく、ただ思い巡らすだけに過ぎません。

——生如法師の開示
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