衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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日常法話

2021年06月23日    水曜日     第1開示 合計3456開示

証悟とはいかなる境地か

証悟とはどのような境界なのか。 般若心経の第一句はこう言う:観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。行深般若波羅蜜多、照見五蘊皆空。これは、般若の智慧を具えた心である如来蔵を証得したその当下に、心は空となる、という意味である。その中のキーワードである「行」は、禅を参究して般若の義理を参究するという意味であり、「深」は一つには禅定が深いことを、一つには参究する智慧が深く、方向が明確であることを指す。深いという前提条件のもとで、第六識・第七識は大いなる智慧を生起し、その智慧は法界の実相を照らし、五蘊の中の一切の法界がすべて般若心である如来蔵によって現起されたものであり、五蘊の実質はすべて空であり、仮相・幻化相であることを証得したのである。

そうなれば、心の奥底において真実の五蘊は存在しないと知ることになり、それなら苦はなく、一気に一切の苦厄を度り切ることになる。すべての苦厄は仮相であり、真実ではなく、如来蔵が幻化したものである。このように照見五蘊皆空した後は、心は空で無為となり、煩悩は断除される。これこそが大乗の見道で如来蔵を証得した功徳受用であり、これこそが意根の見道、意根が如来蔵の三昧 (samādhi) の境界を証得したものであり、定慧具足、定慧等持である。いわゆる照見とは頓悟という意味であり、途中でじっくり吟味・分析・思惟してゆっくり理解するような時間や功夫はなく、知れば知、知らなければ知らず、ためらいがない。 

このように照見五蘊皆空した後、さらに別途に転依如来蔵 (āśraya-parāvṛtti-tathāgatagarbha) してこそ証悟と呼ぶのか。まったくその必要はない。これこそが真実の、毫も曖昧さのない証悟であり頓悟であり、あの種の次第に解して得るもの、分析・推理を通じて次第に明らかにしていく解悟ではない。すでに大乗の門に入り、真実の功徳受用を得ているのである。もし意識で推理・吟味・推測によって如来蔵を推し量ったのであれば、このような推測や推理には何の功徳受用もないので、ゆっくりと転依する必要が生じる。しかし、意識がどれほど努力して転依しようとも、意根が証得していなければ、やはり転依成功 (āśraya-parāvṛtti) には至らない。それゆえ、後始末のできない問題が山積みとなり、煩悩は依然として煩悩であり、無明は依然として無明なのである。

定を禅とする人々のように、一念不生の禅定を修得し、これこそ真心の無念の境界だと思い込み、妄を真と認める者がいる。しかし出定すると、また妄念が現れる。心の中で真心が消えてしまうことを恐れるあまり、絶えず定を修め、長期間禅定し、できるだけ出定せず、定境を保任し、真心が失われないように確保しようとする。それを美名を冠して保任と称する。しかし定境は結局消失するものであり、人は結局出定するものである。たとえ無量劫出定しなくとも、定境は真心の自性ではない。真に悟ったなら、いったい何を保任するのか。真に真心を証得したなら、いったい何を転依するのか。当下にしてすでにそうであり、当下にして心は空となり、清浄 (viśuddha/pariśuddha) となった。鯉が竜門を跳ぶようなものである。竜門を跳び越えて竜になったのに、まさか跳び戻って鯉に戻るのを恐れるだろうか。そもそも竜門を躍り越えていないので、心が戦々恐々とし、得失に患い惑うているからこそ、保任や転依が必要になるのである。

——生如法師の開示
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四念処観行問題解答36

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如来蔵を証得する就是証悟、何須転依

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